秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

タクシードライバー

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Redアメリカンニューシネマ上映鑑賞会の模様。

景気が悪い。6月以後、昨年から続いている減給、減俸、リストラ、非正規雇用切りの波が一気に拍車をかけている。支給されたボーナスも先食いされたカードの清算や住宅ローンの支払い、子どもの学費に消え、残りは、お盆のための蓄えにと財布の紐を締める。飲食や遊びにかけるお金がない、あったとしたも、何とない不安からお金を使わない。

そんなこんなの月前半。声をかけた連中の多くが、おもしろい、参加したいとはいってくれるものの、残業や得意先との打ち合わせ、接待などで参加できませぬ。利益は少なくとも、多くの仕事をこなし 売上げを少しでも上げる。その空気がなんとなく、わかる。それに、わずか5日前の告知だったということもあり、スケジュールの調整もままならなかっただろう。

当初は、ヒロと舎弟の清水。どうしたものかと話していたら、これないといっていたハマが、掃除のおばさんからもらったという菓子を手土産にあらわれる。

その名も「金萬」! 名前を見たときから、ハマは、これをもってくれば、下ネタにされるとわかっている。上演を遅らせて、健康の話から末期がんの話、オレが取材したホスピスの話と、生と死について、ちょいマジに語り合っていた空気から、ハマの登場でいっきに、下ネタへ。

が、しかしだ。人間の本道、人の生きる道には、生と死がある。その入り口にある性は、だから、生と死に深く結びついている。性を語らずして、生も死も語れないのだ。人は、性によって生まれ、そして、死ぬために生きていく。努々(ゆめゆめ)、性を軽んじてはならん。と秀嶋節が爆裂。上映鑑賞会のいい導入になる。

トモ、ネーリストのK。それに、俳優の長部努を加えて、鑑賞会らしくなる。上映途中で、ベティ、お手伝いのEも店に来ていたが、途中ということで、視聴は遠慮したらしい。終了後、合流。スタッフメグの友人男性も来ていた。

今回の『タクシー・ドライバー』は、76年の作品。カンヌ映画祭パムドール賞を受賞した名作。監督マーティン・スコセッシ。脚本ポール・シュレイダー。主演ロバート・デニーロ。助演女優ジュディー・ホースター。みんな若い。ジュディ・ホースターにいたっては、当時13歳。少女の娼婦役。恐るべき演技力。

監督、脚本、主演のトリオは、この後、80年の『レイジング・ブル』を手掛けている。ロバート・デニーロは、この作品でアカデミー主演男優賞を受賞した。監督のスコセッシは、06年、6度目のノミネート作品『ディパーテッド』(主演レオナルド・デカプリオ、マット・デイモン)で、監督賞・作品賞を受賞している。

音楽は、バーナード・ハーマンヒッチコックの『めまい』など、大作映画、名匠といわれる映画作品に楽曲を提供し、『タクシードライバー』が遺作となった。サックスを基調にした、ジャズテイストの乾いた旋律は、ニューヨークの夜を泳ぐ、娼婦ややくざ、社会からのあぶれた者たち、享楽を求めて町をさまよう人々の姿を言葉にはできない、詩情で見事に描いている。

アメリカンニューシネマの多くが、その根底にあるテーマは、「承認」だ。実存の欲求。それが得れらないまま、家庭からも社会からも認められず、自己の居場所を求めて、さまよう。この作品でも、主人公のベトナム帰還兵も、家出して娼婦となった少女も自分の居場所がない。

それでいて、自分がここにいるということを多くの人に知らせたい。社会からはみ出した人間の、社会に参加したい、認められたいというの屈折した心情、コンプレックスと見栄、体裁が、その軽薄な恋愛遊戯におぼれる姿や権威にへつらう、いやしさとなって描かれている。

自傷行為のように、大統領候補暗殺を企て、それが失敗すると、やくざに生き血を吸われている少女のために、やくざたちを次々に殺害する。格段、正義のためと言うのではなく、自分自身の存在証明を得るために、そうするのだ。そして、自傷らしく、最後は、自殺によって、社会から自分自身を消し去とうとしながら、生き延びてしまう。だが、社会のヒーローとなったとき、自分が居場所を求めていた社会そのものが、どれほど虚飾と欺瞞に満ち、軽薄だったのかに、主人公は気づく。

そこは、自分が居場所を求め、憧れた場所でありながら、それに値しない軽薄な世界だった。社会の真実を知り、その軽薄を、もはや生きられなくなった、主人公は、そこの帰属する意志をなくし、同時に、自分が憧れた社会が、ヒーローという肩書きでしか受け入れない社会でしかないことも自覚するのだ。彼は、だから、いつもまでも、町の人並み、喧騒を車の中から眺めるだけの、孤独なタクシードライバーでしかない…。

いまこの国の現実、格差によって人が寸断され、雇用の姿によって持てるものと持たざるもの、社会の居場所、立ち位置が異なる中で、社会に憎悪をたぎらせ、承認の要求から通り魔的な殺傷事件、無差別無作為な殺傷事件を起こす人間たちを増大させている現実、それとこの作品は、実に符号している。

トミー・リー・ジョーンズ主演『告発のとき』に描かれているように、ベトナム帰還兵のPTSD、それがいまでは、イラク帰還兵のPTSDとなって、アメリカの重大な社会問題となっている現実とも重なり合う。

他者に自己の存在、自分がここにあるという実在が受け入れられない、認められないことが、どれほど息苦しく、心を捻じ曲げるものか。それをこの映画は、いまでもしっかり語り続けている。

いまこの国にも、町に溢れる人の群れ、喧騒を遠くに眺めながら、居場所を探しつづける、いくつももの眼が、ルームミラーに浮んでいる。