秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人生は重荷を負うて歩むが如し

明日への希望を失ったように、遠くを見つめる年老いた男がひとり…。

よく見れば、コレドのオーナーMさん。

時刻は、まだ午前11時くらい。この時間、普段ならMさんは、自宅でMKちゃんのために、ランチを準備している時間ではないのか…。聞けば、平日だというのに、マチネーが入り、これから店に出なくてはいけないのだという。

しかし、余命いくばくもない、老人のように。明日をも知れず、街を徘徊する年寄りのように。息子の嫁の小言に耐え切れず、家にいる時間を少なくしようとさすらう高齢者のように。長年連れ添った、嫁にいびられ、居場所がなく、喫茶店の低位置に、長々と座り続ける、再就職もまなならない、リストラされたオヤジのように。だが、なぜか、おしゃれなB&Bのテラスに座っているのは、なぜ?

聞けば、台本の構想を練っていたらしい。実は、Mさん、何を思ったか、今年の春くらいに、「コレド演劇祭」みたいなことを企画し、丁度、客の少ない8月にこれを開催することにした。なにやら最優秀賞には、次回コレドでの公演が格安(もしくは無料?)で実施できるらしい。だれか審査するかは、実に興味津々なのだが。

そこには、夏場の売上げをつくろうというMさんのオーナーとしての戦略も見えるのだが、ま、Mさんのやりたい舞台と店との経営とを考え、双方に楽しみのある演出を考えたというところ。趣旨はどうあれ、これを機に、コレドが、いまは、死滅状態にある小劇場演劇のメッカにでもならないとも限らない。

で、Mさん自身も、新作台本を執筆し、舞台演出をやり、参加するらしい。オーナー、演劇祭主催者、元シナリオライター、現在も演劇人という肩書きを持つMさんにしたら、それは気合が入るだろう。ヘタな芝居は見せれらない。なんてことで、相当プレッシャーもあるのではないかと思う。それが、あの重い、オレにあらぬ想像をかき立ててくれる、楽しい表情になっていた。

今年は、オレも旧作を手直しして、舞台上演をやるつもりだった。だが、当初公演を予定していた、銀座の劇場を下見したとき、舞台機構としては、やれない状態ではなかったが、小屋付きの担当もおらず、機材管理もいい加減。うちのスタッフの力をすれば、それでもやれなくはなかったが、10数年振りに再開する舞台としては、お粗末。

舞台の設備や機構が問題なのではなく、小屋に熱さが感じられないのだ。男に捨てられ、もう何年も男と恋をすることなく、化粧もおしゃれもしなくなった、安手のスナックの、客の来なくなった店のママ、みたいな感じ。小屋が生きていない。やる方にも、見る方にも失礼な空気感。いろいろと手伝ってもらってているプロダクションマネージャーのOさんとも関りがある小屋らしく、特別の配慮もしてもらえそうだったが、断わった。

結局、なんとか俳優座でと画策している。しかし、この俳優座が1年半先までスケジュールが埋まっている。老朽化の問題はあるが、最近人気の赤坂の新しい劇場と違い、味がある。やはり、これまで、多くの役者の汗や涙を吸い込んできた板のある空間は違う。それゆえに、天の時、地の利、人の和。それが揃うまで待とうという気になった。折りしも、4月5月に小さな映像作品を仕上げることになり、台本の手直し作業にも手が回らなかったこともある。次の書籍の企画の詰めもあった。

かつては、かなり強引に舞台をやっていた。しかし、この年齢になって再開するからには、いろいろな点で不利不足なく、それなりの規模でやりたい。一つには、再演したい舞台は、映画化できないかと動いている一面もあるからだ。

それが実現するかどうかは、オレの運とこれからの努力次第。そして、支えてくれる仲間の熱意や支援しかない。やはり、天地人だ。

それに、いくつか形にしようとしている作品もあり、こちらの作業もほかの仕事の合間を縫って進めていかなくてはならない。結局、時間がない。だから、天地人を待つしかない。しかし、それが大人の仕事というものだ。

この間、久しぶりにメシをした、物書き・絵描きのMちゃんは、小説を書くためだけの時間をつくろうと必死だった。そのために、自分のいろいろな思いも犠牲にしている。ほかのことをやりながら、作品に向かうことができない体質。そのために彼女は整理したり、向き合わなければならないことがある。

しかし、事情はどうあれ、そうした時間を生きられることは、それはそれで幸せなことなのかもしれない。オレもかつてはそうだったからだ。

日常の雑事や生活のための仕事、それに抱えているものの多さ。大人になるということは、その重荷を負うことだ。重荷の負いかたは、いろいろだが。しかし、どこかで、自分の表現にこだわるというわがままさもなくてはできない。その斟酌を重ねるところで、新鮮な表現を編み出すというのは、並大抵のことではない。若い頃には、わからなかった苦労。

それをいまのオレは感じている。もしかしたら、Mさんのあの表情は、その重さを感じている表情だったかもしれない。

若かろうと年老いていようと、人は、何かを抱えながら生きていくしかない。その中で、自分の生きる道、表現する道を探るしかない。それは、絵画や舞台、映像などの作品を生み出す人間に限ったことではない。

何を伝え、何を残していけるか。それは、あまねく、生きてこの世にある人々に共通のミッションなのだ。あるときは、子どもであり、あるときは、愛するだれかであり、見知らぬ客のためにであり、まだ見ぬだれかのためであったりする。しかし、その思いが真摯であれば、道は自ずと拓けてくる。それは、政治においても、日々の仕事においても、家庭においても同じことだと思う。

今日一日を大事にする。今日一日を乗り越えれたことに感謝する。そんなことから、意外と道は拓けてくる。そう信じているオレは、のんびりやなのだろうか。