秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自分への執着

人は目先のことに心を奪われる。

とりわけ、小泉政権以後、この国にもたらされた新自由主義という、日本人の歴史的、体験的、文化的、民族的ポテンシャルからいって、到底馴染まない社会システムが、アメリカの意のままに、この国に持
ち込まれてからというもの、人々は、自分への執着を加速させている。

それは、簡単にいってしまえば、他人のことを考える心のゆとりも、他者をいたわるたおやかな気持ちも、自分の利益を犠牲にしてまでも他者に尽くすという自己犠牲の愛も、持てるほどの時間的、経済的余裕もなくなり、また、そうした心根を持ったところで、きっと人は自分を裏切り、傷つけるに違いないという、疑心暗鬼、他者への不信が蔓延してしまったからだ。

いわく、そんなの無駄。

本来は、そうした心根を持つことの美しさ、尊さを自覚していながら、また、そうした心根で他者とつながりたいと思いながら、傷つくことをおそれて、人は、利他の絆から、その言葉で撤退する。

働らかざる者食うべからず式の自己責任社会となってしまったいま、たとえば、母子家庭の生活保護費が、母親の収入の高によって、その支給金額が変ってしまうことが起き、心身に病気や怪我を抱え、あるいは、貧しさから学歴を得られなかった人々が生活保護費を申請しても、支給されないという現実が生まれ、年金支給額がカットされたり、年金そのものの管理がずさんだったり、その年金を着服している輩がいたり、あるいは、高齢者といえども、国の財政のために、医療費負担をし、自分のことは自分でできるようになってもらわなくては困る式の、弱き人々が冷遇されたり、騙されている社会の姿を見ていれば、いまの競争になんとか付いていかなくては、自分の将来は悲惨だと思うのは当然だ。

その結果、人へ思いをめぐらすことも、他者のために生きることのすがすがしさとも出会えず、社会から離脱したり、落ちこぼれないために、自分だけのことに必死にしがみつこうとする。必死にしがみつこうとするから、そこにはストレスが生まれる。必死にしがみつこうとはしていないと、ゆとりを見せようと笑顔をつくり続けるから、心が疲れ、病んでいく。それが、一層、自分の切迫感をけどられまいと、その場限りとわかりつつ、ごまかしくのきく、エセ恋愛や遊び、バカ騒ぎに紛れようとさせるのだ。

そして、その笑顔や表情とは裏腹に、心の中はすさび、荒れ、落ち着けるところがない。いつも不安に追われ、それをごまかせる、また、新しい、だれでもいい人との出会いを求めて、心の漂泊を旅することになる。

順番が逆なのだ。

自分への執着を加速させなければ、置いていかれるのではなく、自分への執着が深いから人から置いていかれているのだ。自分への執着ゆえに人にふりまわされ、ふりまわされた結果、傷ついている自分と出会ってしまうのだ。

離脱者や落伍者になりたくなければ、傷つきたくなければ、まずは、他者のためにできることをやることだ。損得ではなく、自分自身をいやすように、他者をいやしてみることだ。何かの報いを期待することもなく、不安でパニックなっている自分を他者の姿の中に写し出し、他者の痛みの中からそれを見出し、自分にできるささやかなことを実践することだ。

それによって、人は、少しだけ、心の落ち着きを取り戻すことができる。なぜなら、その他者は、あなたそのものだからだ。他者に心をめぐらすということは、自分へ思いをめぐらすことに等しい。それを根気よく、少しずつ積み重ねる中に、求めていた平穏な心の地平が拓かれる。

ある意味、愚かだといってもいい、そのお人よしを生きることが、いままでがんじがらめになっていた、いろいろな不安を解き放つ、遠いようで、が、しかし、確かな筋道なのだ。

そのためには、自分をあきらめない心、決め付けない心、傷つくことを怖れない心を持つこと。

その当たり前のことに立ち戻れる勇気が、この国の政治家にも、国民一人ひとりにも、求められている。

弱きもの、傷ついたものへの愛のない社会は、自分をも愛せない社会。自分をも救えない社会。それを変えられるのは、いまを生きるあなた自身をおいて、他にない。