秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ひびの入った分厚ペルソナ

人間の言動には、その要因となるなにがしかの因子がどこかにある。
 
人がこだわりや執着、歪な言動や志向に向かうのは、生誕から成長の成育歴、あるいは思春期の挫折やトラウマ、成人してからの適応の不具合等々の背景と因子がある。
 
だが、思春期以後、他者と適応するために社会的ペルソナが必要であることを知ってから、人は、その要因であるものを様々に装うことを学ぶ。思春期問題で保護者や教師が手を焼くのは、この装いに振り回されて起きている。
 
社会適応力とは、ある意味、本来の自分ではない自分を他者に対して演出することでもあるからだ。本来の自分よりも矮小に見せたり、過大に見せたり、あるいは矮小でもなく、過大でもなく、表情や反応を限りなく表に出さなくすことで適応しようとあがく。
 
その振幅の揺れ幅の中で、人は社会に適応するのに無難なラインを見つけ出していくのだ。

成人して時間が経過すると、これに社会的地位や立場、それらに基づく評価や名声といったものが加わり、かつて自分が社会適応のために、異なる自己を演出し、本来の自分ではない何者かがそうした蓋然性や属性によって社会に受け入れられているという現実を忘れていく。

簡単にいえば、生まれながらに、自分は立派な大人であったかのような錯覚をし、かつ、それを錯覚と認識できなくなる。
 
結果、子どもの気持や思春期の感情の激変、あるいは社会適応できずに終わる人々の痛みや苦しみも理解できなくなっていく。過去の自己の脆弱さが強かった人ほど、強者の論理に走ってしまうのは、こうした心の構造があるからだ。
 
人は、本来、臆病で、脆弱で、それゆえに、虚偽や虚飾や偽りをそうでないように演出して、社会における自分の居場所を見出そうとする生きものだ。それをそのままに認めていけば、強者の論理など出て来ない。
 
強者だけでは成り立たない世界の現実が見えてくる。あるいは、強者だけで成り立たせようとしている世界の過ちが見えてくる。
 
だが、その広がりとゆとりが許されなかったから、脆弱な人間でありながら、背伸びをして、等身大以上であるために、強者のひとりあろうとする。そこにはいつのまにか顔にまとった、分厚ペルソナがある。
 
しかし、それは、無理がある分だけ、不安が呼ぶ言葉尻や感情が爆発したときに、等身大の顔をのぞかせる。
 
いま、分厚いペルソナを被った人たちがこの国の政治をつかさどり、経済を動かしている。テレビというメディアは正直に人の姿を映す。政治家が尊敬されないのは当然のことだ。どの顔にも分厚いペルソナがある。
 
そして、それは、強者の論理ではない、冷静な視線でみれば、すべてにびびが入っている。