秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

言の葉の力

ブログの炎上問題で、警察の捜査が入り、炎上させた学生や社会人が検挙されたのは、つい数ヶ月ほど前のことだ。

いままで、ブログの炎上やネット上での差別発言には、本腰を入れていなかった司直が、最近はサイバー犯罪の特別チームをつくり、常時監視体制を敷いている。警視庁にも大規模なサーバー犯罪の取り締まり部署がある。その大きな要因は、秋葉原無差別殺傷事件など、犯罪予告がネット上に書き込まれている現状を監視するというのがある。

その網に、ブログの炎上に加担した奴らがひっかかった。だが、検挙してみれば、ありがちなそこいらの、どこにでもいるチョロい学生や社会人。その多くが明確な犯罪意識も、やるべき根拠もなくやっていた。警察の手入れに、泣き喚いた奴もいたらしい。そりゃそうだろう。逮捕、それだけで、社会的に抹消されてしまう。起訴されれば、盗撮、痴漢並の刑が待っている。この国は、刑事犯の9割が起訴されれば、有罪という国。このテカテカした正義の好きな国民は、テカテカした正義をぶつけられる餌食がいれば、ピラニアのように、そいつを喰いつくす。正義を気取って、悪意の書き込みをした奴らが、その正義で餌にされるのだ。

オレは、ついこの間、『ネットの暴力を許さない』という、携帯サイトのいじめの教育作品をリリースしたばかりだが、いじめというのは、子ども同士のこぜり合いではなく、見事な人権侵害。これが、正義と熱狂して、いじめをした果てに、いじめていた自分もその正義に餌食にされ、ボロボロにされるという話。いじめはいつでも主客逆転してしまう構造を持っている。また、いじめに使われる言葉の多くには、哀れで、愚かな差別発言がある。

昨日のブログに、オレが小沢支持者と勘違いした、あんぽんたんが、自分の軽薄な正義を書き込んできた。ならば、議論しようじゃないかと水を向けたら、そのあんぽんたんは、今度は、軽薄な正義ではなく、単に人を小バカにした書き込みをし、中国人への差別発言をつかって、人を揶揄してきた。

最近のアホは、ちょっと情をかければ、すぐに付け上がる。顔を見せないところで、まともに議論する教養も知識もないおバカが、単に悪意だけを伝えるための書き込みをしてくる。ありがちな、ネットの暴力のパターン。

オレが中学生時代、こいつは人のためならずと、ボコボコにした奴とまったく同じ。まともに議論できる教養も知識もなく、単に悪意の言葉だけが達者。が、オレがボコボコにした奴もそうだが、大方、その程度の奴は、まともに人と喧嘩する根性もない。口先だけで、実生活では、単なる小心者。時には、そいつ自身がボコボコにされる日常を送っている。いわば、ウサばらし。

匿名のネットで使える悪意の言葉は、社会的日常の生活では、ほとんど通用しない。社会批判にせよ、政党批判にせよ、何にせよ。発言には、どのように厳しい発言にも、根拠と論理がいる。それができなければ、他人に相手にもされないし、己の無知無能をさらすだけだ。ところが、匿名性に隠れられると、つまり、プライベート空間にいられると、錯覚しているネットでは、これまで、そうした、根拠なき、軽薄な誹謗中傷、差別発言が見過ごされてきた。

ひとつには、そうした発言にガツンと対応してこなかった、プロバーダー、サイト管理者の公共意識の欠如、責任もある。そこで、昨年から、司直も誹謗中傷、差別発言や殺人予告といった、犯罪因子が読み取れるネット上での書き込みを監視するようになった。。

個人情報保護法案には、オレはいろいろ意見もあるが、なんでもありのネット空間に規制の網をかけること自体は悪いことではない。革命を語るにせよ、保守反動を語るにせよ、社会的なルールの上にそれがなければ、軽薄で、おバカな無知無能の言葉の暴力は蔓延してしまう。それに対して、毅然たる態度を示し、心無き奴には、鉄槌を加えるというのは、当然のこと。

人はそんな不毛なことのために、言葉を使っているのではない。時間をもてあまし、やることもなく、異性にも好かれない、鬱積してるような暇な奴ならいいが、普通、みんな忙しい。まともに、人とかかわりながら生活をしている人間には、不毛な言葉で時間を費やす暇はない。

人は人とつながりあうために言葉を使っているのだ。

言葉というは、「言の葉」。古来、人は、言葉には魂が宿っていると考えていた。だから、言葉を大事にしなてくは、自分の心が汚れると、戒めがあった。しかし、それは、言葉が、その人間の教養やセンス、能力を表現するものだとわかっていたからだ。また、汚い言葉、愚かな言葉を使えば、汚い、愚かな人生に導かれてしまうと、怖れたからだ。つまり、言葉は倫理と道徳、教養の写し絵とされたのだ。

たとえば、いつも自然に「ありがとうございます」と言える人間と、こちらが「おはよう」と声をかけても返事をしない奴がいる。どちらが人にとって、気持ちよく、笑顔でいられるかを考えればわかる。

言葉には、人を不幸にも、幸せにもする力がある。
言葉は、他人のためにあるのでない、自分をみつめるためにあるのだ。