秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

心の鍵

カルカッタの聖母、マザー・テレサ
そう呼ばれることをマザー・テレサ本人は、決して、喜んではいなかったという。

彼女にしてみれば、神からのミッションを、神のいわれるまま実践し、インドの貧しさと向き合って来ただけのことだったからだ。彼女にしてみれば、神の日常を、淡々と生きて来たに過ぎない。


マザー・テレサホーム「死に行く人の家」は、路上生活、最下層で、医師にもかかれず、人知れず死に行こうとしている人が、最後の時間を心安らかに過ごすための家だ。

インドでは、カースト制によって身分区分され、最下層の人々が、貧しさから子どもを売る、あるいは、生まれてまもない、子どもの四肢を、親が切断するという生活が珍しくはない。

貧しさゆえに、わが子を死なせるよりは、どこかの富豪の家に養子になれば、階層を越えることができ、豊かな生活が保証される。また、苛酷な下働きの仕事でも、食事ができ、生き延びることができる。

それもままならないときは、身障者となり、物乞いとして生きるしか、生きる道がない。それは、貧しい親の収入にもなる。そこで、わが子の四肢を親が切り落とす。

しかし、そうして、なんとか生き延びても、富豪の家の養子にでもならなければ、病気をして医者にかかることもできない。物乞いの生活をし、病気を患い、まるで、病死した野良犬のように、だれにも関心をもたれず、心配もされず、名前さえわからないまま、路上に亡骸を晒す。

インドがどのように経済発展をしても、カースト制の下では、この貧しさを変えることはできない。
生まれたときに、その宿命を背負ってしまっているからだ。

あるとき、ある一人の富豪が、マザー・テレサホーム「死に行く人の家」を訪れ、ホームへの寄付を申し入れた。
マザー・テレサは、インドの厳しさを知る人だ。ホームを維持するために、お金の必要性を実感している。マザー・テレサは、だから、どんな寄付でも受け入れたし、お金を必要としていることを隠すことはなかった。ロマンチックな聖母ではなく、徹底したリアリストだった。

ホームを視察に訪れた、その富豪は、ホームで死を迎えている人々の姿をみて、テレサにこう言った。
「この人たちは、貧しさや病気で、さぞや苦しいでしょうね…」
すると、テレサは、その富豪にこう言い返した。
「この人たちは、貧しさや病気で、苦しんでいるのではありません。貧しさや病気のゆえに、だれからも、自分を必要とされず、だれからも認められず、愛されてもいないことが、苦しいのです」
その言葉に、その富豪は、次に返す言葉がなかったという。

テレサが伝えているメッセージは、決して、貧しき人々、制度からはじき出された人々の救済のためだけのものではない。

人に認められ、必要とされ、そして愛される…。人が、自分が生きていることの価値を感じるというのは、そういうことなのだ。それは、貧しさや病苦のある人に限られたことではない。金持ちであろうと、健康な人間であろうと、自分がだれにも認められず、必要ともされていないとその人が感じれば、だれもが、そのことに深い苦しみを覚える。

その苦しみに軽重はないのだ。他者をいつくしむこと、他者の痛みを共有するということは、そういうことだ。

オレは、講演などで度々、語るが、貧しく、苦しい生活者だけに人権があるのではなく、富める人にも、犯罪を冒した人間にも、同じように人権がある。不遇で、辛酸な人生を生きる人にだけ、人権主張ができ、そうではない人間には人権の主張、生きる主張を持つ資格はないという考え方は、人権そのものを理解できていないし、それでは、不遇と辛酸を生きる人の真の人権など、口先だけで、本当に考えていることにはならない。

そうした偏狭な考えが、派遣切りに遭う人に対して、努力が足りなかったからだ、正社員になるようにがんばれなかったからだと、石を投げる。そいうふうにしか、社会でのスタートを切れなくしている、社会の歪みや問題に鈍感なままに。

あるいは、先進国家で、年間3万人以上の自殺者を出しながら、自殺する人は、生き抜く根性がない弱い人間だ、もっと大変な苦しみを生きている人がこの社会、地球にはたくさんいるのだから、いのちを粗末にする人間が悪い。私は、オレは、こんなにがんばって生きているだから、がんばれない奴が悪い。死にたい人間は死ねばいい。

もっとひどい考え方だと、戦争には、人口増加を止める効果があったのに、大戦がなくなってしまったから、人口が増加するばかりだ、だから、自殺者が出るのは、その調整を人間自らしているのだといった、人のいのちをいのちとも思えない発言になる。

人の苦しみ、痛みは、だれかとの比較によって計れるものではない。貧しい時代の貧困と飢餓、病気の苦しみの重さと、豊かな時代の豊かさゆえに感じる、苦しみの重さとは、まったく違いがない。そのときに感じる苦しみが重いと、その人が感じていれば、それは同じ重さを持つのだ。
それを、貧しい時代の苦しみが重く、豊かな時代の苦しみは軽いとする考えが、先にいったような、人のいのちの尊厳を無視した発言や考え方になる。

時代時代に、人それぞれの人生がある。3万人以上の自殺者一人ひとりの人生に、それぞれの苦しみや困難があったのだ。だれかの人生に最高の重みがあり、だれかの人生には、その重みがないのではない。

オレは社会派といわれる作品の取材や資料調べの中で、子育てをひとりで抱え込んだ母親の孤独、介護世帯の苦しみ、いじめや不登校、ひきこもりになった子どもたちの苦しみ、それによっておきる家庭内での暴力・虐待、DVによって、苦しむ女性たちの声、派遣切りやリストラによって、自殺まで考えるほど追い詰められた人々の声を聞いている。

どれひとつとして、同じ人生はない。その置かれた境遇や立場、育ってきた環境も違う。しかし、その現実を知れば、おろそかに、彼らに、がんばれとか、もっと努力しろなどとはいえない。その言葉が、かえって、彼らを追い詰めることになるからだ。

時として、人は自分の弱さを自分自身で叱咤するために、あえて、そうした人々、人生に失敗し、自殺まで追い込まれる人を強く否定することがある。しかし、いま自分は、まだ生き、そして、生きようとしていられる。自分の弱さに怯えながらも、そうできているのは、その人が、親や友人、いろいろな周囲の人に、まだ、認められ、支えられているからだ。

自分の弱さ、キケンさを押し込めるために、いのちの尊厳をないがしろにした、偏狭で歪な視野に身をゆだねるのではなく、まず、いまなんとか生きている自分が、他者によって支えられている、幸せな存在なのだという気づきを持つことだ。

そこへの気づきを持たなければ、本当の意味で、日々の生活を意味ある、価値あるものに変えていくことはできない。

人に自分の欠点を含め、受け入れてもらえる、人に心配される、人に自分の話を聞いてもらえる。そのささいなことが、どれほど幸せなことか、ありがいことなのか、その感謝への気づきと目覚めが、閉じていると思いがちな自分の将来を切り開く、心の鍵なのだ。

その鍵は、どこか遠くにあるのではない。自分の心の中にこそ、あるのだ。

昨日、物書きのMちゃんと久しぶりにメシをして、宗教の話から、そういう話になり、本気でぶち切れた。Mちゃんのいいたいことがわからないわけではない。しかし、それでは、Mちゃんに成長がない。

Redの常連連中が、最近、オレが初めて会う人に、オレを紹介するときによくいわれる。
「カントクは毒舌家だし、説教モードになると辛辣だけど、そこには本当に愛があるから…」

どうでもいい人間に、オレは、ぶち切れたりはしない。
昨日、Mちゃんにもいったが、それが、オレの他者への作法と流儀だ。