秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人を幸せにするもの

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原宿駅 山手線外回りの明治神宮の森を背にしてある看板


外出するときは ほとんど自転車か徒歩 雨の日か 移動時間がないとき 遠距離のとき以外

めったに地下鉄 電車に乗らない

そんなオレが 山手線を使うときに 必ず使うのが 原宿駅 千代田線との連絡がいいから

そのホームの中ほどに 明治天皇と皇后が 在位中に詠んだ 和歌が この看板に書かれている


原宿駅を使うとき オレは どんなに急いでいるときでも この看板の歌を見てからでないと

電車に乗らない

明治天皇と皇后の歌を読むと ふと 心が洗われる思いに なるからだ


毎月 新しい歌に変るのだが そこには ただ歳時記を詠んだものではなく

人が生きて行く上で つい 忘れがちなこと だが 忘れてはならない 

大切な心構えが 詠んである

しかも だれもが思うことでありながら 平易であるがゆえに 実践の難しい 心のあり方が

わかりやすく 歌われているのだ


しかし 高貴な立場の人間が 庶民に人生訓をたれる という内容ではなく 

天皇 皇后共に 一人の人間として 自分自身への戒めや 反省を込めて歌われてある

だから 実に 素直に その歌の心が しみこむのだ


人は 慌しい日々の中で つい 大切な人や 周囲の人間への 心遣い 気配りを忘れる

ときには 人を偽り ごまかし 裏切り 傷つける 

しかし 自分を守るためには 生きていくためには それも仕方がないと

自戒を忘れ それが 当たり前になってしまい 他者への気遣いに 鈍感な自分を忘れるのだ 

そのため 自分の 人としての 愚かさ いやしさ 恥かしさに 気づけない


そんなオレたちのすさんで 汚れた心を すっと 気づかせてくれ そして 自分自身の

いまを振り返らせてくれる そんな歌ばかりなのが 気にいっている


今月は 

「花になり 實になるみれば 草も木も なべてつとめの ある世なりけり」明治天皇


花を咲かせ 実になるのをみていると 草も木も この世にあるすべてのものには 生を受けた以上

それぞれの役目があるのだと 思います という意味


「人として 学ばさらめや 鳥すらも 枝ゆずるてふ 道はあるものを」皇后


人として 互いに譲り合うことを学ばないということがあるでしょうか 譲り合いこそ 人が

学ぶべきことだと思います 鳥でさえ 自分が止まっていた枝を 他の鳥に譲るということが

あるのですから


昨日 内田の芝居を見に行く前に読み 帰りの下車のとき このブログに紹介しようとデジカメ

のシャッターを切った


仏教の教えの基本に 山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)という言葉がある

明治天皇が詠んだのは この仏教精神だ


この世にある いのちのすべては みな同じ重さと等しさを持っている だから すべてのいのちに

軽い 重いはなく 互いが仏となるいのちなのだから 互いをいとおしいと思う心を

忘れてはならない と説く その思いがあれば 他者の心の痛みに 耳を傾けることができる


だからこそ 皇后の歌にあるように 他者のために 自分を犠牲にして 譲るという心が

生まれるのだ 

自分さえよければいい 自分の都合だけを 相手に押し付ける という心ではなく 

他者への気遣いや 思いやりが生まれる


それがないとき 人は夜叉にも 修羅にもなる


そして 煩悩という 自己への執着が起こす 苦悩に苦しみ 

いつも何かに不満で いつも何かに 追われているような 焦りや不安 怒りから 

抜け出すことができない

それが また 他者への気遣いを 忘れさせる

自分のいやしい心に 気づけないから 結局は その苦の原因を 

簡単に 他者のせいにする


自分の都合や 気分が優先では 互いを仏となるいのちと 大切にすることはできない

結果 他者に対して おろそかになる その結果 人としての信頼を失い 

うわべだけの言葉や 付き合いを 他者に見抜かれ 

自分という人間を 本当に大切に思ってくれる人と出会えない

出会ったとしても それに気づけないのだ


そして いくら努力しても 報われない うまくいかない という人生を生きることになる

他者を大切にできない人間に 他者に救われる 人生はない

他者を利用しているつもりが 別の他者に利用されてるだけの人生しか 待っていない 

他者に 逆に都合のいいように 使われているだけの日々しかなくなるのだ

だから 寂しくなり また その寂しさで 自分の都合で人に うわべだけの言葉を吐く


どうして うまくいかないのだろうと 悩むのならよいが それへの反省もなくところで

いくら努力し がんばってみても それは 自分がそう思っているだけで 実は

何の努力もしていないのと 同じことなのだ


いま 当たり前のことを 当たり前にやる ということが 希薄になっている


簡単なことだ


早起きを 心がける 時間を大切に使う 部屋を整える 

やれらなければいけないこと しなくてはならないことを 先送りしない

ちょっと元気のない人を みたら さりげなく声をかける

久しく連絡のない人がいたら どうしたのだろうと 声をかけてみる

だれかが 自分のことを 心配してくれていたら 近況を 伝える

手紙やメールがきたら できるだけすぐに返信する

だれかと何かの約束をしたら それを守る 守れない約束をしない

自分の言葉に責任を持つ 気分で 都合を変えない


そうした単純なことが できない人が いま あまりに 多い


昨日 看板の写真をとり 帰りは急がないからと 原宿から 乃木坂まで歩いた

土曜日の原宿 表参道 青山界隈は 天気もよく 暖かいから 人が多かった

表参道の交差点にきたところで しばらく 行ってなかった 18のときから行っている

「大坊」という珈琲店に入る(写真)


この店は変らない すべての内装 珈琲の味 スタッフや オーナーの大坊さんの 無口さ

それらは 18のときのまま変らない 

38年近く 同じ味の 上質の珈琲を いまも出し続けている


やっていることは 彼らが これがうちの味と 客に約束した味を ただ単純に

こだわり 淡々と繰り返しているだけ

だが 一つとして 単純で簡単なことに 手を抜いていない それを大事にしている

大事にしているから オレのように 38年 通い続けている 男がいる

客に こびるような言葉も うわついた客寄せの言葉もない

だから 信頼できる


平易なことほど 実践が難しい 平易であるがゆえに わかったような気になるからだ

だが 本当にわかるというのは 当たり前の 単純なことを 丁寧にできて初めて

わかるのだ 生活の中で それができていない人の言葉は 虚しい


わかることと 言葉でなぞるのとは まったく違う

他者に対して ひたむきさのない 自己愛だけでは それにたどりつくことは できはしない

信頼される人になる努力をしていない人ほど それに気づけない


人の 本当の幸せは そんなささいな が しかし 実践が途轍もなく 難しい

毎日の暮らしの中に あるのだ