秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

息子の入学式

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事務所の洗面所の配管が古くなって 壊れてしまった

部屋を管理しているTKさんに 下見もしてもらい 修理も頼んであるのに

なかなか来てくれない さすがに一週間近く洗面台が使えないのはつらい

で クレームの電話を入れるとすぐに行くという返事だった が なかなか現われない

午前中に いつもあっせん融資を利用している 港区役所に顔を出すつもりの予定がくるった

工具類をかかえて 現われたTKさん いやぁ 道が混んでて とありきたりな言い訳と思いながら

責めることもなく 話を聞いていると 九段会館 武道館辺りが 大学の入学式でごったがえし

マジ 渋滞していたらしい

そういえば 息子も今日が入学式

前々から 大学の入学式に親が顔を出すなど 論外 と考えているオレは はなから

行く気はなかったのだが 後で 出席するなよといっていたのに 母親の情でどうしても

のぞいてみたかったのだろう 同伴はしていないが 出席したかみさんから連絡をもらうと 

ほとんどの親が しかも 両親共に参加していたらしい

他の連中からも聞いたが いま 大学の入学式に両親が揃って 参加するのが当たり前らしい

地方出身者の親もそうだという

まったく 世も末だ 大学生ともなれば もう一人前の大人 

これから社会人へ向けて 大学という場で 自分という人間を鍛える 船出の日に

親がいてどうする

仮に同伴しなくても 親が顔を出すというのは いかがなものか と思う

大学に入れば 友人もつくり 活動の場も広げ 自分で居場所をみつけなければいけない

一人で歩むしかないのだ

その船出の日こそ 親はあえて身を引き 子ども一人で 人生という戦場へ送り出すのが常識だ

というか オレたちの時代は それが常識だった

それこそが 本当の親の愛 務めではないはないのか

オレたちの頃は 親などが出席すれば それは仲間から揶揄されたし 

自分から親に来なくていいとつっぱねた

大学へ進むといういい機会を利用して 親離れ 子離れをしたのだ


学生としての時間を終え 社会人なりなんなり 自分の生活を自分で歩む最後の日 卒業式に

親が顔を出すのは わかる 

社会へ飛び出していく子どもへのはなむけでもあり 

親自身が 子どもをそこまで扶養してきたという誇りを持つことが許される日だから


だが まだまだ 親の扶養にいて しかも 社会人という次ぎのステップへ向かう

学生最後の修行が 始まるその日に 親がいてどうする


そんなことだから 最近 軟弱で 社会常識のない ちょろい学生が多いのだ

しかし それは学生を責めるより 親たちを責めるべきだろう

子どもの自立を見守り 促すという 毅然とした態度がとれない つまり 

しつけの基本がわかっていない


だから 子どもはいつまでも親に甘える 甘えさせれば 社会常識など身につくはずはない

家庭での安穏とした常識を 社会常識とはき違える

結局 社会に出ても打たれ弱い人間しか育ったない あるいは 他人のことなどおかまいなしの

自己中人間ばかりになる


そいつらが やがて 企業の上層部に座り あるいは官公庁の大きなポストにつく

安倍晋三麻生太郎といった2世 3世議員のテイタラクを見て 気づかないのだろうか

親の権威と傘の下で ぬくぬくとお坊ちゃまくん お嬢ちゃまちゃんをやってきた連中は

親の権益の及ぶうちは そこそこやれても それがなくなれば

内実の弱さや自己中の姿を 結局は世に晒す


最後に笑われ 苦労するのは 親でなく 本人なのだ

そういう育てられ方しかされておらず だって ボクってそれしか知らないんだもーん 

というアホに育った 本人たちなのだ

その方が よほど親として恥ずべきことのはず


戦後すぐに出版された 初の日本人論 ルース・ベネティクトの『菊と刀』という名著がある

その中で 彼女が説いているのは 日本文化の基本にある恥の文化だ


武士道精神のハラキリも 敵に身を汚されないための女性の自決も 

あるいは一般庶民の村共同体への強い意識も

その根底に 日本人には恥の文化があるからだと語った


それが 明治維新後 またたくまに日本を近代国家にした原動力でもあったし 戦争において

アメリカを震撼とさせた強さの源であり かつ 徹底抗戦にこだわり続けた日本人の意識の背景に

あったと論破している

彼女は 恥の文化が起こした過ちを指摘しながらも 実に深い敬意をそこに示している


だが いま日本から 彼女が深い敬意を払った恥の文化は潰えようとしている

残ったのは 他の人がそうしているから うちも 

わたしも同じにしなくては 笑われる という

世間への見栄と体裁だけになった 

斎藤環がいう 世間教だ


彼女が深い敬意を払ったのは 心の中で 子どもの大学の入学式に同伴したいとは思いつつ 

それをそっと見送ることしかしない 恥を知る 親たちの 毅然とした日本的美の姿だったのだ

子どもの将来の成長のために 敢えて毅然たらんとした 

親としての威厳と誇りだったのだ


そんなことを考えながら 結局 乃木坂から芝の港区役所まで歩き あれこれアドバイス

もらい また 歩いて帰ってきていた

途中 麻布十番にある稲荷神社に お参りする 昨年末の酉の市以来

ここにも桜があった(写真)


道すがら 芝公園の辺りも 午後の時間からシートを広げて 場所取りをする

中年おっさんや若いサラリーマンの姿があった

恥を忘れた この国の人々は 散り行く 桜の下で 何をするのか 何を感じるというのか


恥の文化を忘れ 変わり果てた この国の人々の 酔いどれた姿を

恥を知る かつての日本人の姿を見てきた 桜たちは 

その大きな変化を どう見ているのだろう