秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

スタッフはいても取り巻きはいらない

人間、自分のまわりに取り巻きという人間を集めるようになると、ほぼ先が見え始める。
 
これは政治の世界はもちろんのこと、組織や団体といった、人が集合するところでは、すべからく同じことがいえる…と思う。
 
唯々諾々、阿吽の呼吸というのは、ある意味大切なことだが、油断するとそれがぬるい伸びたラーメンのような関係の集りになることもある。
 
伸びたラーメンなら、まだいいのだ。食えなくはない。が、しかし。それが本道ではない…ということに気づかなくなるとこれは手がつけられない。伸びたラーメンどころか、まったく食えないまずいラーメンになっていく。
 
それでいながら、「これ、おいしいよね」と頷き合ってしまうような世界が、取り巻きの中だけにいると生まれてしまう。
 
その集りの中だけの常識や慣例が違和感なく成立し、世の常識や人々の感覚から大きくずれていることに気づけなくなる。つまりは、井の中の蛙状態になるのだ。
 
ま、この国の政治、経済、教育、そして、芸術や文化といわれるものも、それでやってきたし、なんとかそれで続けられた。
 
なぜか。答えは簡単で、本物のリーダーやエリートをつくる教育がなかったからだ。この国の人は機会の平等に始まり、横並びが大好きだ。それでは、リーダーやエリートがつくれるわけがない。横並びだから、金や社会的地位や何かで名声を上げるとそれが、リーダーやエリートとしてもてはやされる。
 
その人物の品格や教養、人間的魅力や深さ、強さは、あまり問われない。結果的に金で学歴をえ、親の社会的地位や知名度にぶらさがって、かっこうだけは一人前だが、内実のないおバカさんがリーダーやエリートと呼ばれるようになる。
 
そうした素養があったのに、なれなかった奴はうじうじと、また、金や社会的地位や名声のあるものにしがみつきたがる。多少、素養があるから、かえって始末が悪い。

弱い奴ほどよく吠える…とよく子どもの頃におやじにいわれた。確かに。そして、弱い奴ほど、甘えが許される相手を探したがる。
 
男は顔の半分笑えばいい。男は親しい人の前でも涙はみせではならない。異性に甘えたり、おねだりしたら、それは恥だと思え。愚痴はいっても、泣き言はいうな。愛するものを守るためには、死をも惜しむな。弱い奴は見捨てるな。抱きしめろ。人を踏み台にしたり、利用しようと思うな。そして、いつもまわりへの感謝を忘れるな。
 
そんな当たり前のことに挑もうとしない。挑んだことがない。本人たちは挑んでいるつもりかもしれないが、端からそう見えなければ、それはやっていないのだ。
 
リーダーやエリートというのは、何か特別なことができる人間をいうのではない。心の内はすべて理解されなくとも、理想と夢に鈍牛のように歩む人間のことをいうのだ。
 
そういう人間にスタッフは必要でも、取り巻きはいらない。