知者は覚者であり 行者である
酒豪編集者Rに31日には 送ると約束していた企画書をせっせと書く
実は 最初にこの企画 このタイトルを思いついたとき 企画書にするには それなりに力を入れて
やらないと 簡単な企画書だけでは そのねらいとしていることが伝わらないと 思っていた
つまり 時間と手間がかかるということ
現在の日本の家庭、地域、社会、そして国が抱える問題とその背景にあるものへの認識が
多少なりともある人なら すぐに理解できる話
現実に オレがRedやその他の場で いろいろな問題に直面している人たちの声を聴けば 結局 最後に
落ちるところは いま書こうとしている本の企画に落ち着くのだ
潜在的にはだれも感じている不満 そして こうすれば解決の糸口がみえれるのではないかと感じている
こと
それを平易に伝えるには Rが指摘しているように いつもオレが日々やっているように よろず相談屋
さん形式のフリートークショーをやった方が より具体的で 早い
だが 企画書の企画趣旨や構成の中では きちんとした オレ自身の感じている社会論を展開しておかな
くてはいけない
なぜなら この次の本こそ オレがせっせとやってきた 社会変革のための問題提起のひとつのまとめに
なるだろうと予感しているから
おそらく 芥川賞作家の平野啓一郎は それを小説という形式でいずれ発表する これはオレの予言だ
そして それはまちがいないと確信している
人々の意識改革は 日本では容易ではない
日本人は一度たりとも 自発的な意識改革によって社会を変えたことがない
だから 企画書の中で 論理性にとんだ意図だけは明確にしておかないと つまり原理をきちんと述べて
おかないと なぜこれなのだ ということになる
ただ Rが指摘しているように 人生の困難や直面している制度的理不尽さから入れば 意識を変える
きっかけだけでも つくることはできる
昨夜 Rに企画書が一日遅れるとメールし あれこれ一人悩み 自己完結させようと考えていたMちゃんに
も話をしたが 一人で抱えきれる問題の分量と重さは その人が思うほど多くはない
だが 他者を信じなければ その重さを分かつことはできない
担え切れない自分がいけないのではなく 人はそもそもすべての苦を担えるほど強くない
だから アリストテレスがいうように 人は 社会的動物なのだ 社会的関係性の中でしか生きられない
のだ
他者と分かち合うという部分がなければ すべて自己完結し 重さだけを抱え それを担いきれない自分
を責めるだけになる
だが 他者に分かつという それがいまはなかなかできない
他者を信じるというのは いま それほど難しいことになっている
前にも述べたが 30代以下の世代には いま自己否定と自己完結が蔓延している
すべては自己責任という社会で育ち 生きて来た世代だから
しかし それでは 自分を救うことも 自分という人間の存在価値を見出すことができなくなる
結果 自分のことだけでいっぱいで 他者の苦しみを救うことも 世界を 社会を変えるための行動を起
こすこともできない とオレは思っている
自己否定と自己完結が 頭をよぎったら あえて他者のための行動をひとつやってみることだ
それは何でもいい あるいは 日々の暮らしのリズムを当たり前のリズムにしてみることだ
面倒とか おっくうとか 別にいい とかではなく いま目の前にある日常としっかり向き合うことを
すれば どのような苦難にあっても 道は見えてくる
問題点が明確になる それは知者になるということだ
知者は覚者であり 行者である
オレはよく人にそう語る
個人的な問題にせよ 社会的問題にせよ 世界的問題にせよ その問題点と背景を知れば そのときから
その人は これではいけないという目覚め つまり 気づきを持つ
人は気づきを持てば 行動できる
以前 子育てに悩んでいたOちゃんが 新しい一歩を踏み出そうとしたのも 彼が悩み抜いて オレのよ
うな人間に話をするということで 自分の重荷の要因を整理し 何がいま必要か 日々の生活で子どもと
どう向き合うかに気づきをもてたからなのだ
Mちゃんは 個人的な自分の問題を整理できている どうすべきもわかっている
また この社会の 世界の愚かさと矛盾に気づいている すでにMちゃんは知者なのだ
その後をどう生きるかはMちゃんのものだが その先の覚者 そして行者への道はみえている
昨日のMちゃんとの対談は テープに起こしておけば いい社会論 芸術論になったなと 話しながら思
っていた いつか何がしか表現をしようとする若い人にも聞いてもらいたい話になっていた
Rが聞いていたら まちがいなく すべてメモっていたに違いない
実は 最初にこの企画 このタイトルを思いついたとき 企画書にするには それなりに力を入れて
やらないと 簡単な企画書だけでは そのねらいとしていることが伝わらないと 思っていた
つまり 時間と手間がかかるということ
現在の日本の家庭、地域、社会、そして国が抱える問題とその背景にあるものへの認識が
多少なりともある人なら すぐに理解できる話
現実に オレがRedやその他の場で いろいろな問題に直面している人たちの声を聴けば 結局 最後に
落ちるところは いま書こうとしている本の企画に落ち着くのだ
潜在的にはだれも感じている不満 そして こうすれば解決の糸口がみえれるのではないかと感じている
こと
それを平易に伝えるには Rが指摘しているように いつもオレが日々やっているように よろず相談屋
さん形式のフリートークショーをやった方が より具体的で 早い
だが 企画書の企画趣旨や構成の中では きちんとした オレ自身の感じている社会論を展開しておかな
くてはいけない
なぜなら この次の本こそ オレがせっせとやってきた 社会変革のための問題提起のひとつのまとめに
なるだろうと予感しているから
おそらく 芥川賞作家の平野啓一郎は それを小説という形式でいずれ発表する これはオレの予言だ
そして それはまちがいないと確信している
人々の意識改革は 日本では容易ではない
日本人は一度たりとも 自発的な意識改革によって社会を変えたことがない
だから 企画書の中で 論理性にとんだ意図だけは明確にしておかないと つまり原理をきちんと述べて
おかないと なぜこれなのだ ということになる
ただ Rが指摘しているように 人生の困難や直面している制度的理不尽さから入れば 意識を変える
きっかけだけでも つくることはできる
昨夜 Rに企画書が一日遅れるとメールし あれこれ一人悩み 自己完結させようと考えていたMちゃんに
も話をしたが 一人で抱えきれる問題の分量と重さは その人が思うほど多くはない
だが 他者を信じなければ その重さを分かつことはできない
担え切れない自分がいけないのではなく 人はそもそもすべての苦を担えるほど強くない
だから アリストテレスがいうように 人は 社会的動物なのだ 社会的関係性の中でしか生きられない
のだ
他者と分かち合うという部分がなければ すべて自己完結し 重さだけを抱え それを担いきれない自分
を責めるだけになる
だが 他者に分かつという それがいまはなかなかできない
他者を信じるというのは いま それほど難しいことになっている
前にも述べたが 30代以下の世代には いま自己否定と自己完結が蔓延している
すべては自己責任という社会で育ち 生きて来た世代だから
しかし それでは 自分を救うことも 自分という人間の存在価値を見出すことができなくなる
結果 自分のことだけでいっぱいで 他者の苦しみを救うことも 世界を 社会を変えるための行動を起
こすこともできない とオレは思っている
自己否定と自己完結が 頭をよぎったら あえて他者のための行動をひとつやってみることだ
それは何でもいい あるいは 日々の暮らしのリズムを当たり前のリズムにしてみることだ
面倒とか おっくうとか 別にいい とかではなく いま目の前にある日常としっかり向き合うことを
すれば どのような苦難にあっても 道は見えてくる
問題点が明確になる それは知者になるということだ
知者は覚者であり 行者である
オレはよく人にそう語る
個人的な問題にせよ 社会的問題にせよ 世界的問題にせよ その問題点と背景を知れば そのときから
その人は これではいけないという目覚め つまり 気づきを持つ
人は気づきを持てば 行動できる
以前 子育てに悩んでいたOちゃんが 新しい一歩を踏み出そうとしたのも 彼が悩み抜いて オレのよ
うな人間に話をするということで 自分の重荷の要因を整理し 何がいま必要か 日々の生活で子どもと
どう向き合うかに気づきをもてたからなのだ
Mちゃんは 個人的な自分の問題を整理できている どうすべきもわかっている
また この社会の 世界の愚かさと矛盾に気づいている すでにMちゃんは知者なのだ
その後をどう生きるかはMちゃんのものだが その先の覚者 そして行者への道はみえている
昨日のMちゃんとの対談は テープに起こしておけば いい社会論 芸術論になったなと 話しながら思
っていた いつか何がしか表現をしようとする若い人にも聞いてもらいたい話になっていた
Rが聞いていたら まちがいなく すべてメモっていたに違いない