秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

80年前の国益、国防、国策

震災前、私は毎年、この日、麻布十番にある佐賀鍋島藩菩提寺、賢宗寺にいっていた。

40代の中ごろから15年ほど、毎年、2月と7月の決まった日に線香を手向け、慰霊祭に参加していた。それは、この日起きた、二・二六事件三島由紀夫の『豊饒の海』を題材にした戯曲を書くことになったのがきっかけだった。

2月26日は知る人もいるが、7月12日、将校たちが弁護なし裁判で処刑された日だと知る人は少ない。それから約ひと月後、北一輝西田税など民間人4名の処刑も行われた。ちなみに、よく彼ら民間思想家を国家主義者と規定している書物があるが、その著書をきちんと読めば、国家主義とは真逆の思想家たちだ。

ご遺族が高齢のため、慰霊祭を維持できなくなり、今後は親族のみで慰霊を続けたいと知らせをもらったのは、6年程前のことだったと思う。

私が慰霊祭に顔を出し始めた頃、姿はなかったが、次第に、偏狭な右翼団体の人間が慰霊祭に参加するようになってきていた。

ご遺族がそれをあからさまに嫌う様子はなかったが、本来の鎮魂とは別の意味づけをされるのを公開慰霊祭の中止という形で避けられたのではないかと思っている。

当時を振り返る、関係者の証言講話や松本先生など著名な研究者の講演などが慰霊のひとつとして行われていたが、講演になると退座し、それに真摯に耳を傾ける右翼はひとりもいなかった。歪曲した歴史認識の中で、自分たちがそこに参加することだけに意味を見出すような学習のないふるまいを慰霊とはいわない。

80年前の今日、朝鮮、満州への進出によって、軍需産業をのぞき、国内経済はどん底にあった。貧富の差、格差は甚だしく、とりわけ東北の小作貧農は生活苦から娘の身売り=人身売買や夜逃げ、自殺が恒常化していた。わずかな給金をえるために、過酷な労働条件で長時間労働に耐え、結核で倒れる人間も少なくなかった。

一方で、軍の海外侵攻、侵略で財をむさぼる成金や巨大企業は、ますます富を肥やし、これと癒着した政官財は利権を利用して、同じように私腹を肥やしていた。庶民の暮らしへの政策はなく、国防・国益・国策という名のもとに、国民生活が平然と犠牲にされていた。

無知な歴史学者や教育者、評論家は、軍の台頭の契機をつくり、太平洋戦争へと突き進む悪しき事件のようにいまも伝え、報道している。

国防や国益、国策という言葉を政治家や財界人、識者、マスコミが頻繁に口にするとき、大方、そこに、だれのための国防なのか、だれのための国益なのか、何のための国策なのかはない。

国防、国益、国策が私腹や利権を正当化し、それに群がるために使われる常套語であることは、歴史が、現実が証明している。

国民、市民、庶民のためにある国は、ことさらに、国防、国益、国策、つまり国家をいう必要はない。わからない人は、国家の基本にあるものがなにかに無知だからだ。

国は国民がつくっているのだ。政治や権力がつくるものではない。都市は地方がつくっているのだ。都市は、地方がつくり、支えているのだ。突然、そこに国が存在しないように、突然、そこに都市が存在しないように。その基本にあるのは、地域であり、地方でしかない。

自然と向き合い、天候に煩悶し、自然に笑いながら、泣きながら、怒りながら、生産を引き受け、工芸に励み、食を提供し、そのことによって知を磨き、学び、人も育て、人や物を地方は都市に、国に供給してきたのだ。国が先にあったのでも、都市が先にあるのでもない。

人がそこにあったのだ。地方がそこにあったのだ。そのためにある国は、多くを語らずとも、人々に国を愛する心を育て、都市と協働し、国家のためになにをなすべきかの答えを自らに持てる。

人のため、地域のため、地方のためになにをするか。なにをしなくてはいけないか。
それを問えば、人の、地域の、地方の、そして国の自立の道も見えてくる。自立した人、地方がつくる国は、決して、声高に、国防、国益、国策を人々に叫ぶ必要はない。自らがそれをつくる人間だからだ。

二・二六を学べば、主客転倒した、この国の近代の過ちが見える。そして、私も二・二六を学ばなければ、福島にこだわりを持つこともなかった。

将校たちと行動を共にした下士官のおひとりから聞かせていただいた、将校たちの決起の動機。そこに地方の、福島、会津の貧農の話があった。

野営訓練、いまでいうサバイバル演習の中、飢えと渇きでたどり着いた山中の家には、家財道具はなく、子どももいない。家財道具は質に入れ、娘は身売りさせていた。なのに、なけなしのわずかな米を薄い粥にして、自分にふるまってくれた。

演習後、東山温泉までたどり着いた兵士たちは、終了の豪華な膳にだれも手をつけなかった。その旅館の別室では、戦争成金が芸者を挙げて豪華に遊んでいる。。。

7月12日処刑された民間人のひとりに、思想家の渋川善助がいる。陸軍士官学校へ進んだ会津の秀才だった。七日町にある渋川問屋の長子だ。事件にかかわった将校は、当時、地方では最優秀といわれ、陸軍士官学校に進んだ若者たちだ。いまの東大も比ではない。

育った地方にあった現実。そこには、空虚な国益、国防、国策の言葉に翻弄される、人々の生活があった。

あれから80年。この国は、どこが変わったのだろう。なにが変わっていないのだろう。