くよくよ いじいじ うじうじ
くよくよするより、元気な方がいいに決まっている。うじうじするより、大らかの方が気持ちがいいに決まっている。いじいじするより、しゃきっとしている方がさわやかに決まっている。
だが、そうはいかないのが人だ。そうありたくてもできないのが人というものだ。
そもそも、元気で、大らかで、しゃきっとしている方がいいと思うのは、本人よりも周囲の人間だ。沈んだ人や暗い人、重い人はみたくない。近くにいられると困惑する。
そんな気持ちが多くの人にある。くよくよ、うじうじ、いじいじしている本人だってそう思っている。
そこで、本当は、くよくよ、うじうじ、いじいじしている自分を取り繕い、周囲が望む元気で、大らか、しゃきっとした人間でいようと多くの人がペルソナをまとう。
そこで、本当は、くよくよ、うじうじ、いじいじしている自分を取り繕い、周囲が望む元気で、大らか、しゃきっとした人間でいようと多くの人がペルソナをまとう。
そして、いつか、ペルソナを被ることが普通であり、常識であり、社会通念になり、そうではない人間は、ダメな奴、がんばらない奴とみなされる。
取り繕うことに疲れても、必死でがんばっている人間から見ると、それができない人は許せない。よわっちさを表に出せる人が妬ましくすらある。だから、そうした人々を忌み、憎悪すら持つようになる。
憎悪まではいかないまでも、自分たちとは別枠に囲い込む。世の中には、まるでないもののように。あったとしても、それは「あの人たち」とスティグマをつけて。
社会学でいうカッティングオペレーションは、簡単にいえばそのようにして生まれ、構造化される。
だが、演劇にせよ、映画にせよ、造形にせよ、小説、落語にせよ。その主人公になれるのは、決して、元気で、おおからで、しゃきっとしている人間ではない。描くのは、それとは真逆の人間たちであり、ペルソナの下に隠された本来の人間の弱さや業だ。
国会答弁の様子を見ていると、つくづく思う。
本質的な議論を避け、元気で、おおらかで、しゃきっと見せようとする表層の言葉が厚顔無恥に飛び交っている。実利のある言葉も、誠意のある答弁も、人々の心に届く志や願い、思いもない。なによりも、為人、為国民がまったくない。口先だけだ。
元気で、おおらかで、しゃきっとしているように見せてきた、私たちの社会、国。そうあることが美徳のようにされて、たくさんのものを置き去りにし、捨ててきた世界。
くよくよ、いじいじ、うじうじしてるのは、簡単に置き去り、捨て去りのできる人たちの方だということに気付けていない。
元気で、おおらかで、しゃきっとしているように見せてきた、私たちの社会、国。そうあることが美徳のようにされて、たくさんのものを置き去りにし、捨ててきた世界。
くよくよ、いじいじ、うじうじしてるのは、簡単に置き去り、捨て去りのできる人たちの方だということに気付けていない。