秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ナントカ感覚

昨今の政治状況をとらえて、庶民感覚のなさ、国民生活の実態理解の乏しさといったことが指摘されている。

だが、指摘されても、これに賛同する人と賛同しない人の数は、おそらく、半々程度なのだろう。依然として、現行の政治に反感を持つ人は国民多数の声にはなっていないからだ。

それは、庶民感覚を肌で体感できている人や生活の苦しさが脳の半分以上を占めている人々の実状が他の多くの人にいかに少なく見積もられているかを示している。

あるいは、体感できていたとしても、当てになり、信頼できる代替えの政治がどこにも見当たらないと感じ、長いものには巻かれろで、マイナス選択として現状に甘んじようとしている人たちがいかに多いかを示してもいる。

そして、重大なもうひとつは、とりあえずの自分の暮らしがそれなりに成り立ち、自分や自分の家族のこれからさえ、ある一定の見通しが立てば、口先ではいろいろにいっても、じつは他はどうでもいいという人がいかに多いかも示している。

つまり、人々が共有できていた庶民感覚そのものが、人々の中から消えつつあるということだ。

いま、私たちは、かつてのように、ナントカ感覚とか、ナントカ意識、もっといえば、ナントカ常識といったものを不特定多数の人々と共有できない社会に生きている。

社会を根底で支えていた、ナントカを喪失したことで、私たちの社会は非常識と身勝手さ、ご都合主義の敷居を驚くほど低くしてしまったのだ。政治の傲慢や暴走、ご都合主義、詭弁の正当化は、結果として、様々な社会問題を生んでいる。

だが、人々が自明のこととして共有できるナントカがないために、社会に立ち現れる様々の現象も政治とは切り離され、あくまで、ある人間の責任、ある一部の異常な人間の出来事、ある地方の出来事、ある会社の不始末、ある学校の問題、ある家庭の事情というふうに、個別のあるに封じ込め、社会全体の問題としてとらえることができなくなっている。

それらを明日は自分のこと、将来、自分にも起きうることとして、とらえ、政治や国の問題として理解できる視野と広がりを学ぼう、身につけようとは努力しない。結果、悲しくも、怠慢で怠惰なそこだけが、国民共有の庶民感覚にされ続けているのだ。

政治家に庶民感覚を求めながら、じつは、国民からもそれが失われている。

言い換えれば、庶民感覚が政治家にあるから、平気で大臣室で多額の現金を受け取れ、憲法改正をおおいに議論しようといいながら、他の政党を揶揄し、そのくせ、自民党憲法草案条項の説明を拒むいい加減な答弁を恥じることなく、平気でできる。庶民感覚が一国の大臣や総理にしっかりあるのだ。