秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

未来の見える七夕

子どもの頃、親がやってくれた年中行事。その体験と記憶を持つ人は幸せな人だと思う。

晦日の年越し蕎麦に始まり、正月の朝のお年玉と家族そろってのお雑煮。ひな祭り、母の日、父の日、春のお彼岸、節句、七夕、お盆、中秋の名月、秋のお彼岸、クリスマス…。

いつか思春期になると、そうした家族や親族の行事がわずわらわしくなる。青春期になり、社会とのつながりが大事になると、そうした行事よりも友人や仲間との時間が大事になる。そして、社会の人間と認められるようになると、そこで生きるための事柄が優先されていく…

それは、だが、至極、自然なことだし、普通のことだ。家業を継ぐといった人でも、まったく、家族の行事を親世代と同じにしている人は決して多くはない。

家族関係の問題や親との確執、いろいろな家族の在り方とその歴史の中で、家族の行事、そのものが負担だという人もいるだろう。そもそも、いろいろな事情で、そうしたものは経験がないという人もいるかもしれない。

向田邦子山田太一は、家族の中にある、そのいろいろな風景を描くのが見事だった。だが、おそらく、向田や山田が描いた家族の風景や実像は、いま、私たちの生活から消えつつある。

小津安二郎が戦後開いた、日本の家族の原風景は、本質的に大きくは変わっていない。だが、小津に始まった家族ドラマの骨組み自体が維持できなくなっているのだ。少子化、高齢化、核家族化、中高年の離婚、単身者の増加…。私たちの家族の枠組みそのものが大きく変わった。

家族が家族であった原風景、地域が地域として存立できた原風景、社会の枠組みがぶれなかった社会の原風景…それは郷愁として振りかえるもので、そのあり方そのものをいまに甦らせようとするのは、逆に人々の生活の現実を見ないことであり、歪めることだと私は思う。

やらなければいけないことは、原風景を懐かしむのではなく、原風景がつくっていた地域や社会、民族としての文化をどう再建できるか、どう新しい形にすれば維持できるかの問題なのだ。

七夕の今宵に限らずだが、変わっていく社会の中で、失ってはならない、自分たちの原風景とそれを次の時代に負担なく、喜びを持って継承できるかを考えてみてはどうだろう。

そんなことからでも、沖縄のこと、福島のこと、いまの政治の歪な姿が見えてくる。

子どもたちが自由に、安心して、未来への願いを込めて、短冊に言葉つづれる世の中、社会、国、世界であるために…。未来の見える七夕であるために。