秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

画策

1960年代後半、政治紛争の時代。JNNニュースの初代キャスターに田英夫さんがいた。後に、社会党から出馬し、政治家に転身した。

田さんは日米安保闘争、ベトナム戦争への対応で、当時の佐藤首相の政策をジャーナリストという立場で分析し、報道マンとして批判していた。

するとある日、首相自身から田さんに電話が入った。あの報道はいかがなものか…。クレームだった。田さんは、その事実を雑誌記事で公表した。言論への介入には屈しないと対峙したのだ。

ベトナム戦争最中、北ベトナムは劣勢にあるとアメリカは報道し、日本政府にも情報操作で圧力をかけていた。国内マスコミもその論調で報じていた。だが、JNNは、南つまり、アメリカこそ、劣勢であると報じた。

田さんの独自の取材でつかんだものだ。当時の福田赳夫幹事長からTBS首脳に圧力がかり、田さんのキャスター降板が決まった。

だが、田さんが報じた通り、それから数年で、アメリカはベトナムからの撤退を余儀なくされ、ベトナム戦争は北の勝利で終わった。

ここまで書くと、多くの人は田さんは、当時の自民党からさぞかし嫌われていたのだろうと思うだろう。

だが、田さんが降板させられ、政治の場で権力と対峙しようとしたとき、自民党三木武夫が「田英夫君を励ます会」を開催。中曽根康弘宇都宮徳馬など大物議員が応援にかけつけた。政治的立場は違え、田さんの人柄を党派を越えて支持する人たちがいたのだ。

議論や対立、反論や意見はあって当たり前だ。場合によって双方が感情的になることもあるだろう。そのことに目くじらを立てるようでは、民主主義など成立しない。お行儀のいい多数決では解決できない問題があるからこそ、徹底的に議論でやり合うのだ。

だが、それは表舞台でやることだ。きちんと互いの立場を明確にし、根拠と論理を持って衆目に晒されてやるべきことだ。当時者だけではなく、他者の眼をそこに置くことで、議論は始めて広がりを持てる。好き嫌いや一時の感情では済まなくさせるためにも、幼稚な感情のぶつけ合いだけで終わらせないためにも、それがいる。

影でこそこそ、力に物を言わせ、あるいは、笑顔で既得権を奪うぞと恫喝するような圧力のかけ方は、やくざやどこかの将軍様となにが違うというのだろう。あるいは、偏狭な白人主義者による黒人弾圧とどこが違うというのか。

政治に限らず、人にとっても、宿敵や目の上のたんこぶや目障りな奴、いうこと聞かない奴、逆らう奴がいることが、人を成長もさせ、より強固にする。それらを全部は引き受けられないまでも、とりあえずは受けて立つという姿勢に、互いへの尊重も尊敬も生れるのだ。

田さんが主義主張や理念の違う人たちとも広くつながりを持てたのも、それがあったからだ。そして、田英夫という優秀な人材の洞察力や知恵を時の政権の中枢にいた人々も生かそうとしたからだ。それゆえに、互いに多いに堂々と建設的に議論し、闘える。

完全な主張や理念などどこにもない。反するものを忖度するところに、次の道、第三の道は見え、そして拓かれるのだ。

戦後のひとつの大きな転換点だった60年、70年。そこにいたのも、いまいるのも、マスコミへの従順を要求する同じ血族だというのは、考えさせられる。

表舞台ではやらず、裏舞台で…どこか維新のときの長州の画策を連想するのは私だけだろうか。