秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

世の中を悪くする

道理が通らないのが世の中で、智に働けば角が立ち、情に掉させば流され、とかくに、この世は生きにくい…夏目漱石の昔から、そのように世の中はできている。

だから、頑なに道理をとおそうとしても、うまくいかず、道理や筋とかいった面倒なことにこだわることを人はやめちまいがちだ。

すると、道理や筋が通らないのが当たり前の世の中になっていく。そして、それをだれも否定したり、批判しなくなる。情感や心情といった、個人の間尺の方が大事になり、程度問題だが、目くじら立てるのがみっとないという見方をされる。

このところ夕刻近くの地下鉄や電車に乗るせいか、そんな光景をあちこちで見る。人とぶつかっても、すみません、ごめんなさいと言葉にする人がいかに少ないことか。

どこかの私立小学校、たぶん有名私立だろ、帽子から靴までこてこて東京の私立小だぞいわんばかりの制服で固めた男子児童が、堂々と席をとり、しかも3人ほどで、はしゃいでいる。

他の児童は大人しく一団になって列車の一隅に固まって立っているのに、その児童たちは自分たちの遊びのじゃれ合いに夢中で周囲に気がいってない。私の忍耐のギリで、これ以上やったら、怒鳴ってやろうと思っていた。

だが、周囲の大人たちは、まったくその子どもたちに目もくれていない。

「いいかい、きみたち。きみたちは、どこの学校の子どもたちかってのが、すぐにわかるんだ。制服ってのは、そういうもののためにあるのさ。いわば、きみたちはぼくらの学校はここですって、名札をつけて歩いてるようなものなんだ。それが、こんな公衆の場で人の迷惑になるようなことをやっていいのかい」

そんな大人しい言い方はしないw

「こら! ここは電車の中だぞ! 静かにしなさい! お前らの学校では、人がたくさんいる公の場で騒ぐようにと先生から教えられているのか! 人に迷惑をかけるようにと教えられているのか! どうなんだ! 答えなさい!」

ま、こういっていただろうw ちなみに、私は子どもが幼い時から、絶対に混んでる電車では座らせなかった。大人を座らせなさい。お年よりを座らせなさい。高齢の方が子どもに席を譲ってくださろうとしても、「いえ。子どもは立たせておけばいいんです」とお断りした。

いま、企業でも部下の叱り方がわからない。できない。そういう人が増えているらしい。乱暴な叱り方をすると、パワハラ、虐待といわれる。

確かに、言葉の暴力は使う本人は無自覚で、使われた方はひどく傷つく。だから、穏やかな説諭や説得が妥当だろう。だが、浸みこむような叱り方…これはじつは難しい。そこで人は叱ることから撤退する。

五木寛之のエッセイにこんな実話が載っていた。

テレビ局に勤める同期の中年の友人が部下の若い青年を鮨屋に連れていったときのことだ。その店は口が悪い店主が売りで、客は店主から鮨の食い方や酒の飲み方まで、あれこれ叱られる。だが、その口の悪さが人気の名店だった。

他の新参の客がいたらしい。なにを頼むか躊躇していると、オヤジの逆鱗にふれ、「何食うのか、はっきりしろい、この朝鮮人が!」と怒鳴ったらしい。

さすがに中年の友人は、この言葉はまずい。そう思った。すると、同伴した若い青年が、穏やかにいったという。

おやっさん…。オレたち、お互い、朝鮮人じゃなくてよかったよなぁ…」

しかも、その「よかったよなぁ…」を本当に、しみじみといったらしい。すると、その店主は、ごくりと唾を飲み、そこから何もいえなくなった。

中年の友人は、五木寛之に、「いやぁ…最近の若い奴を見直したよ」。そういって、その話を締めくくったという。

叱り方や説諭はたしかに難しい。だが、言葉を怖れて、結局、無関心を装い、伝えるべきなにかを伝えず、いわば、教育の機会を放棄する方が私はこわいと思う。

自己中なわがままな権利主張や狭窄した思想ともいえない学習のない社会主張もつまらないが、情感や心情ばかりを優先して、じつは、いろいろなことから逃げる方が、世の中を悪くする。