秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

一年の計

年末年始のテレビのつまらなさは、いまに始まったことではない。
 
私は、テレビガイドとかは見ないし、新聞もとっていないので、その日、どんな番組をやっているかはテレビをつけてみないとわからない。
 
テレビ本体の番組表をみて、視聴予約をするのがほとんどだ。テレビがつまらないときは、その視聴予約したいという番組がないとき。
 
私たちの若い頃と比べいまではテレビを見る人の数が急激に減っている。
 
バラエティ番組が多く、ドラマも内容がつまらないということもある。だが、それと同時に、人々の情報ソースの多様性も大きい。

それでいながら、テレビ報道でえた情報をまるで新聞に書かれている情報のように、そのまま受け入れてしまう。情報ソースが多くなると、人は、ひとつひとつの情報を精査し、深く検討するということができなくなるからだ。

ひと月以上前だが、NHKのドキュメンタリーで、読書量の減少について、おもしろい分析をしていた。

読書量が減っている最大の場所は、実は、大学の図書館。本を借りる学生の数が急激に減っている。理由は簡単で、ググれば、提出論文のサマリーになる情報がいくらでも手に入るからだ。

ところが、デジタルネイティブである彼らは、ググってえられた情報をまたたくまに読み、必要箇所をピックアップする能力はすこぶる高いにもかからず、与えられたテーマを分析し、ひとつの結論を表明する上では、じつに希薄だった。

同世代の別のある学生は、同じようにググりながらも、与えられたテーマについての検索だけでなく、そこから派生する別の情報ソースにも検索をつないでいく。すると、より多様な考え方や意見と出会う。そのため、さらに…と検索をより深めていた。
 
いうまでもない。別のある学生は、ひとつのテーマについて、重層的で横断的、複合的に情報をえ、それによって、自分としての結論はどこにもっていくかを深く考えることになる。
 
じつは、これは、読書によってえられる情報をどう発展させる学習能力があるか否かと同じ意識の動きだ。

既存の論文書籍や研究書籍は持論だけをつらつら述べているのではない。こういう考えもあり、こういう視点もある。だが、こういう考えには、こうした欠点があり、こういう視点には、この見落としがある。ゆえに、こう考えた方がよりよい。
 
その論証としての参考文献や参考図書があり、引用がある。場合によって、それらをたどる中で、直感的に、あ、まったく別の分野に似たような指摘があった…といった気づきを持つこともある。
 
対立する意見をいくつかならべ、だから、こうあった方がいい。こうあるべきだとするとき、その対立する意見を深く洞察しないと、こうあった方が、こうあるべきは手厚く表明できない。

これは、いまのテレビ情報についても同じことなのではないかと思う。
 
簡単に手に入る情報と簡単に手に入れた他者の意見。そこからは自分の考えは生まれない。

年末年始、たまには、酒ばかりでなく、読書にいそしんでみるのはどうだろう。こうあった方が、こうあるべきでは…自分を振り返り、みなにとってあるべき社会や世界をそうやって考えてみるのも一年の計。