秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

依存と温かさ

人にはなにがしか依存症がある。

自立や自律をいうとき、それを忘れてはいけないと私は思う。
 
いや、そんなことはない。依存から離脱することで、人は自立や自律を勝ち取ることができるのだという人はいうだろう。
 
だが、果たしてそうだろうか。
 
買い物、旅行、食、ファッション、ヘアメイク、酒、賭け事などギャンブル、あるいは、アート、アニメキャラ、フィギャー、タレントやアイドル、喫煙、最近ではITによるSNS、セックス…
 
いずれも日常の枠の中であるうちは、趣味や嗜好の内にある。だが、そもそも、趣味や嗜好というものは、日常の正規の時間の息苦しさや規則性から自己を解放するためにあるものだ。

危険ドラッグではなかったとしても、ダイエットサプリやそれに類する健康食品、あるいは薬への依存もその中にある
 
その息苦しさや規則性といったものが人に与える圧力が高くなれば、それは日常の枠の中から出て、いつでも依存症に転換する。

一見、日常的な自立や自律を生きているようにみえて、じつは、日常の正規の時間とは別の時間やなにかのものや人に自己を委ねなくては生きられない。

簡単なことだ。なにかで安心をえられなければ、人は自立し、自律した日常を維持できないからだ。
 
この時期、渋滞やすし詰の列車に乗ってでも、わずかな休暇と大金を費やして帰省する人たちがいる。
 
「ふるさとは遠くにありて思うもの」。室生犀星はそういった。だが、それは裏返せば、ふるさとへの執着であり、屈折した愛情だ。
 
依存には、単に積極的に自ら受け入れるものもあれば、否定という形になって、屈折した依存を示すものもある。
 
人はだれしも、温かなものに包まれたい…。対立というストレスより、対立を回避することで、温かなものを感じる方がいいに決まっている。

だが、人間社会は人とのつながりで成り立つ以上、自分がそう願い、思っても、必ずしも、だれかもそう思っているとは限らない。

そこに、なにかへの執着、依存によって、成立しない温かさを埋めようとする。それは、私もそうだ。
 
しかし、仮にそれが埋められないとすれば、まずは、対立というストレスを回避する道を選ぶだろう。
 
それが人を日常の趣味・嗜好に留まらせ、依存という非日常へいかせない、温かさへの道だからだ。

なにはともあれ、きっと、ふるさとには、なにがしかの温かさがある。