秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

箸使い

多くの人が箸使いで子どもの頃、親や大人から叱られたことがあるだろう。
 
迷い箸、探り箸、渡り箸…。箸使いについての禁忌な例は相当ある。きちんと箸を使える習慣を身に付けさせようというよき文化だ。

また、同時に、私たちの食だけではなく、箸は精神文化、
生活文化と深く根付いている。渡し箸を嫌うのも、骨を拾う埋葬の儀礼に箸がかかわっているからだ。
 
箸はただ、食のための道具ではない。その使い方に様々な心の道理や礼法が潜んでいる。まさに食育。

小学生や中学生、大人になっても箸の使い方がおかしい人がいる。それをみると、その人がどのような育ち方をしたのか、そればかりでなく、どのような親であり、家庭であったのかが見える。
 
箸使いにこだわるのは、家の文化を他者や周囲に示すからなのだ。
 
だが、箸使いはできても、その箸使いが教える人の流儀…流儀をつくる、心の道理、礼法といったものは、果たして、私たちの中にどれだけ受け継がれているのだろうか…

たとえば、迷い箸。どれにしようか、どれを食べようかと、箸があちこちの食材を心の迷いのまま浮遊する。ひどいのになると、箸で一度はとりながら、戻して他へといったことを平気でしてしまう。

食材にも失礼だし、他の人にも失礼極まりない。
 
これがたとえば、私たちの仕事のオーディションのような場面だったら、どれだけ人に対して失礼だろう。失礼どころか、役を求めて、いろいろな思いで、真摯に目の前にいる人を深く傷つける。

いわゆる気の迷いがそうさせる。

鳥があちこちの餌をついばむように、あっちも、こっちもと箸を出して、人をつつきながら、つつかれた側の気持ちはお構いなしに、自分の気の迷いのまま、それを素通りする。

 
あるいは、なにかの仕事の決断や方向を決めるとき、どれだけ周りに迷惑なことだろう。迷惑なばかりか、その人への信頼も持たれない。
 
他にも、渡り箸。これかと箸をつけたと思うと、またこれにもと箸をつけていく。こちらは迷うのではなく、これも、あれも、それもと、まるで自分の安心のために、唾を付けて回り、どう転んでもいいように、陣地をつくっているようなもの。

唾を付けられても、きちんと食べてもらえばいいが、それもしないで、あっちへこっちへとやられたら、やられている食材も、それをつくった人もたまったものではない。

確かに。箸づかいのおかしい人というのは、それはそれでおもしろみがある。私が出会ったそういう人は、概して、おもしろみのある人が多かった。

箸使いという常識や通常の物差しがないのは、逆に、それを個性や魅力とすることもできるだろう。

だが、私が出会ったおもしろみのある人たちは、みな、自分の箸使いのおかしさをよく知っていた。治せるものなら、治したいという中で、そうしていた。
 
だから、ちょっと余計なお世話でも、こっちの方がきれいにみえると使い方を伝えれば、それを身に付けることのできる人だった。
 
そのひとりは、魅力的な芝居をするある若い有名女優さんだった。彼女にそれができたのは、箸の使い方は上手ではなくても、箸を使いがなぜ大事か。その心の道理と礼法はわかる人だったからだ。

来月、抜き打ちのような選挙になる。この国を任せる人たちは、果たして、どれだけ箸使いの心得を体得しているだろうか。