秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

謙虚であれでなく、やさしくあれ

私は子どもの頃から謙虚になれといわれ続け、いまもいわれ続けている。
 
最初のそれは、小学校の3年のときだった。このブログの別のシリーズ「あの素晴らしい愛をもう一度に」綴っている。
 
道徳の時間に、教師が「反省」という課題を出した。自分のいけないことをみんなに発表して、反省しよう。もし、反省に気づいてないようなら、みんなが指摘してあげようというものだ。
 
いまだったら、なんとアホな道徳の授業かと思う。
 
そして、私の番になり、思いつくままそれらしいことを言ったが、突然、クラスのひとりが口火をきって、次々に連鎖し、ついには、クラス中が秀嶋はいつも遊びで主役をやる自己中心な奴だという集中砲火を浴びせた。
 
担任は予想していないクラスの1対49に慌て、家庭訪問にきた。なにやら、母と教師は話し合い、出た結論は、「いい子になりましょうね」というものだった。

おいおい…。と私は思ったが、黙って下を向いて頷くしかなった。そうしたつるし上げがどうして起きたのか、前後の事情も、その実態も把握しようとはしなかったのだ。
 
以来、私は人はあてにならないと思うようになった。そして、大人は少しも真実をみつけだそうとはしないのだとも確信した。

後に、クラス中から嫌われても、私と遊んでくれる数人の仲間がいて、私のつるし上げの首謀者とその仲間が喧嘩になった。私をさらに揶揄したからだ。ボコボコにされて、泣きながら、そいつは、いつも主役で目立つ、秀嶋がうらやましかった…と本音をいった。

私は、ほぼ予想していたので、いまさら、権利回復を主張することもなく、そいつもゆるし、これからは仲良くしようねといって解放した。同時に、こうした火の子を呼んだのは、私にもそれを呼ぶ問題があったからだと納得していた。
 
主役になる奴がいないからといって、主役をやってはいけないということだw
 
だが、親も教師も、そんな解決を子どもたちがやっていたことなどまったく気付きもしなければ、知りもしない。
 
謙虚な人間であれと説くのはいい。だが、それをするなら、物事の深層や謙虚な言動をとらない、その訳を学ぶ努力も説く側にはいるのだ。

その上であれば、語られる言葉には説得力がある。それがない、見た目での判断や予測の中での言葉は、かえって、人の心を閉ざし、遠ざける。

それほどの覚悟の中で、私は人に謙虚さがないといわれようと、学ぶべきこと、知るべきこと、人の道理としてあるべきことを、説いている。たとえば、福島を語っている。それによって、生まれる自分の不利も、不足も、引き受ける覚悟があるからだ。

いうべきは、謙虚であれでなく、人にやさしくあれということなのだ。人を思い、人のことを考えるならば、自分はどのような不利不足になっても、その人のために、その人たちのために、いうべきことをいうことだ。そして、いった責任を行動で示すことだ。

現実の行動なくして、いかなることも成立しない。