秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

郡山の武士の一分

いまある現実の課題をどうするか…はとても大事なことだ。だが、それは、苦難や困難の現実のときの方が多い。
 
そのとき、その苦難や困難と立ち向かう力や凌ぎ切る忍耐は、どこから生れるのだろう。
 
いうまでもない。いまある現実の先にある、夢や希望だ。未来のビジョンだ。10年後に、20年後に、あるいは、自分がこの世にいなくなったあとに、自分や自分たちが直面し、苦しみ、ときに敗北し、だが、その現実を投げ出さず、歩んだという足跡をだれにでもない、自分の心にしっかりと刻みつけることができるかどうかだ。

それがあることで、それを信じることで、人は、いまある現実と立ち向かい、忍耐し、そして、明日を生きることができる。人からの評価ではない。人としての自分の矜持を保てたか否か。そこに人の力の源泉はある。

私は明治というこの国の近代は容認していない。だが、明治という時代をつくった、この国の人々の精神は否定していない。大きな生活の変化と風俗、習慣の変化。だが、その中で、自分たちが受け継いできた伝統的精神と生活習慣の基本を見失おうとはしなかった。
 
もちろん。中には無知蒙昧な人々もいたし、この国の、自分たちの土地のこれからを真剣に考えなかった人もいるだろう。あるいは、伝統的精神と生活習慣に執着するあまりに、世界を知る道を見失った人たちもいる。

しかし、そうあってもおかしくない現実の中で、士族の崩壊とともに、土地を移り、入植や開墾に身を投じた人々は、固執や執着よりも、いまある生活課題を解決することが先だった。
 
郡山市郊外地域には、豊かな田園風景が広がっている。そのひとつ、逢瀬という地域へ向かう途中、ここが明治以後、禄を失った士族の入植によって開墾された地域だと教えられた。
 
猪苗代湖から水を引き、田畑を広げ、県内でもトップの米の生産量を誇る地域へと変貌させた。同時に当時、起業された水力発電は需要な電力供給の拠点ともなった。これは、現在の郡山の発展の礎となり、震災後には大規模な風力発電基地を生み出す基礎になっている。

私はその風景を眺めながら、明治という時代に、九州や東北など全国からこの地に入植した、若い元士族、多くは家を継げない次男や三男といった人々だったろう、その人たちが未知の土地で森を伐採し、水郷をひらき、自分たちの生活空間を創造したときの姿と思いを脳裏に描いていた。

郡山には、久留米という地名や久留米弁と同じ方言がある。私の生まれた福岡市から西鉄電車で30分ほどのところにある、税理士や会計士、行政書士が多く、病院と医師の数が人口比からみても、多い土地だ。現在の郡山と似ている。

その彼らが生活の現実に直面しながら、その苦難と立ち向かい、郡山に巨大な田園風景を創造できたのは、100年後の夢だったと私は思う。

いつか、ここを県内有数の豊かな土地にする。その思いなしくて、あの広大な耕地はつれない。だが…
 
そこに、予想もしない、浜通り原発事故の線量が襲った。そして、激烈な風評の嵐がきた。中通り全体のなかでも、米生産農家の打撃が大きいのは郡山だ。それだけ生産農家が多かったからだ。
 
明治の青年たちが生み出した、100年の夢は、一瞬にして潰えた。しかし、紹介した郡山、本宮の青年たちは、いま新たに、次の100年の夢を持とうとしている。いまある現実とそれによって立ち向かおうとしている。
 
写真は、逢瀬で代々神主の家として地域を支えてきた中村さん宅。現当主の中村さんは、震災前から白鳥の飛来する有機農家に挑戦してきた。だが、震災後は以前からの客はいなくなった。いま支えてくれるのは、震災後に支援で出会った人々だ。
 
米だけの専業では先が見えない。援農の人や体験農業の人たちのために、許可を申請し、いまは、宿泊型の体験農園・農家民宿として人気が高い。その顔には武士の一分がみえる。

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