秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

はじかれても

このところ、乃木坂にいる限り、ほぼ毎日、5キロ程度をゆるいジョギングで走っている。今日は、いろいろ思うこともあって、10キロ試しに走ってみた。いけそうだ。やっと体が走れる体に近づいている。

40過ぎくらいから、なにか思うことがあるときとウォーキングをやるようになった。

ただ、歩くだけでなく、筋トレも入れて1時間半。だが、今回のように、ウォーキングで体を慣らし、ゆるくでもジョギングで最低5キロを走るようにしたのは、20代の頃、毎週末皇居を走っていたとき以来だ。

ウォーキングもそうだが、ひたすら歩く、走るというのは、自分の心と向き合うのにいい。ただ歩き、走るだけではなく、いろいろな思いがあるとき、それをやると自分の内面と向き合える。

速さを意識すると、それができない。私も取材したことのある、三春在住の芥川賞作家玄侑宗久氏がいう歩行禅とは、このことだと思う。
 
青山霊園や外苑の絵画館外周を走っていると、走っている人間におかまいなく、走路を遮る人たちがいる。決して、意図して遮っているわけではない。舗道なのだから、どう歩いても批判されるものでない。走路専用道路ではないのだ。
 
だが、常識からいっても、わざわざ走っている人間の障害になるような動きはしないものだ。避けるなり、交わすなりしそうなものが、まったく、その気配すらない。走者がそうするのが当然といわんばかりに無頓着。

一方、ただ散策しているだけの人たちにすれば、どうして走る人たちに気を遣って散歩しなくてはいけないの…ということになるだろう。その思いが、ゆずるという意識をなくさせている。

ジョグやマラソンをやっている人ならわかるだろうが、一定のリズムと進路を保って走っている側は、微妙に人を交わしたり、急な人の動きに対応するのが難しい。ゆずれとはいわないが、互いに配慮しようという気にはなる。

そうした場面に遭遇していると、言葉にしなくてもわかるだろうという常識が、いまはひとつひとつ言葉にして説き、説明しないとわからない世の中になっているのだなと思う。

あうんの呼吸ではないが、言葉を介さずとも、大方のことはわかるだろうというのが通用しない人たちが増えている。

今回実施する、第三回の福島応援学習バスツアー。私の熱意の伝え方が下手なのだろう。いま私が、一番、見てほしい、ふれてほしい、福島の現実、中通りの実状。私のような福島への思いの深い人間は、多少の無理をしても、それを見るべきだと思うし、見てほしいとも思う。

だが、それも言葉を費やさないと人には伝わらない。前回のツアーでも、私は自分自身が心を震わされた場所や人にふれてほしい、ただ、その願いだけで実施した。
今回も、私がふれあった、本当に愛すべき人々とその地域を見てもらたい。

それは、またひとつ、いろいろな学びと感動と、そして、少しでも役立つことをという利他の心を自然に芽生えさせてくれる。その喜びを感じてほしい。
だが、言葉が足りない。私の力が足りない。

吉田松陰が江戸で投獄されていたとき、高杉ら松下村塾の塾生たちが、井伊直弼の言葉に準じて、反省の弁を述べるように嘆願した。せめて、死を免れて欲しいと願ったからだ。だが、松陰はそのとき、いった。
 
「私の叩き方が足りないから、幕閣にとどいていないだけなのだ。彼らに非があるのではない。私の声が小さいから、彼らの心に届くように、心の門を叩いていないからだ…」

人の心を動かす。それは、あうんではできない。できないなら、責めるのではなく、届くように、叩く…。そう願った松陰は護送の途中、斬首された。

私は走りながら、そんなことが脳の中に沸いてきは消える。それでも、やらなくてはいけないことがある。はじかれても、はじかれても、伝えたい思いがある。