決められる政治
人は、基本、まちがいをやる。人は、基本、物事を失念する。人は、基本、思い違いをする。人は、基本、余計なことをする…
人というものの基本にあるのは、あやまちだ。何事かに取り組むときに、善意や思い入れ、やる気と緊張があるからこそ、そうなる場合もあるし、悪意や打算、散漫、冗漫、傲慢がそうさせるときもある。
人に自分の正義を要求することの愚かさはそこにある。
自分が持つ正義や善悪の物差しは、人の本来性からみれば、何の役にも立たない。人それぞれ、その物差しは違うからだ。人は完全である、あるいは、なければならないという期待は、だから、身勝手な正義の押し付けだったり、身勝手な幻想に過ぎない。
期待や幻想を足場にしたものは、有史以来、その後、大きな禍根を歴史にも、生活にも、時代にも遺す。場合によっては多くの尊いいのちが犠牲になることもあれば、文化や知性、品格といったものまで地に落ちる。
または、完全を期待して、裏切られ、それが憎悪となって、完全でないものの排除や駆逐に走るということもある。さらには、そう処遇されたものが、完全を唯一の物差しとする人たちへの反逆として、関係ないだれかを傷つけるということも起きる。
だから、やるべきことは、あやまちをさせない、しないための事前の策。そして、あやまちをさせてしまった、したときの善後策。それ二つのあるなしの方がはるかに大事だ。
それがあれば、想定外も、不意の困難も、パニックになって口角泡を飛ばすことも、あとあと禍根を残すことも生れない。状況を冷静に理解し、次に何をなすべきかが見えてくる。
当然ながら、正義と善悪による人それぞれの異なる物差しを寄せ集めて、喧々諤々、おまえが悪い、おれは正しいなどと愚かな時間の浪費をすることもない。
事前の策、善後策がないのは、それをやっている本人たちが、いかにそれが物事を始めるときの基本にあるべきものだという学習がないからか、意図して、そうしたものを設けたくないからだ。
なぜなら、事前の策、善後策を用意しようとして、それがないことを本人たちがじつは一番わかっている。つまり、そもそもが危いものとわかっている。
事前の策や善後策など検討しようものなら、それ自体の危うさが明らかになる。危ういゆえに、果てしない、どこまでつづくかわらかい検討を続けなくてはいけない。まるで、円周率の計算のように終わることがない。じつは、当の本人たちがそれを知っている。
だから、強引に結論づけたがる。
だから、強引に結論づけたがる。
政治のことに限らず、すべからく、いまの世の中、これが問題なのだ。人の頭脳や知恵には限界がある。まず、そこから出発しようとしない。だから、危険なのだ。
決して、普遍の安全など我々人間にはつくれないのだ。そこから出発しようとしない。
とくに事を急いていると、人はこれをやる。いっぱいいっぱいなのに、成果を示さなくてはと思うとこうなる。世間やだれかに認められたいと焦るからそうなる。
消費税は上げる、だけど緩和策をやる。消費税を上げる、だけど不況になって人気を落としたくない。消費税を上げる、そうしないとアメリカがこわい。特定秘密保護法案、それを可決しないとアメリカがこわい。辺野古への県内移転。それをしないとアメリカがこわい。
不人気への不安とアメリカへのおびえ。すべての期限は年度末。だから、事前の策も善後策もないまま、先へ先へと急ぐ。
愚かな国民は、決められる政治の登場とそれに喝采を贈る。
果たしてそうなのか。忘れられている現実、決めなくてはいけない政治は、ほかにたくさんあるんじゃないのだろうか。
昨日、統計が発表された。震災関連死、2,688名(今年3月末集計)。内、福島県内震災関連死、1,383名。震災関連死の約半数が福島県。その中でも、南相馬、富岡、波江、いわき、楢葉、双葉など、原発避難地域やその隣接地が群を抜いている。
震災を生きのびながら、原発事故がなければ、津波被害のあと、十全な生活住環境があれば、生きられたいのち。その大半は66歳以上の高齢者。
昨日、いわきの海岸で打ち合わせして、食事にいこうとすると、霊柩車が海岸通りを走っている。「海を見せてやりたかったんだろうな…」。地元のSくんがポツリといった言葉は、胸をついた。「震災関連死だろう、きっと」。私はそういうのがやっとだった。
決められる政治などと簡単にいってもらいたくはない。
昨日、いわきの海岸で打ち合わせして、食事にいこうとすると、霊柩車が海岸通りを走っている。「海を見せてやりたかったんだろうな…」。地元のSくんがポツリといった言葉は、胸をついた。「震災関連死だろう、きっと」。私はそういうのがやっとだった。
決められる政治などと簡単にいってもらいたくはない。