秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

居場所


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一昨日、昨日と連夜で放送された「オリンピックの身代金」
 
その中で、爆弾犯の青年が、学生運動セクトの男にいう台詞がある。
 
セクトの男はいう。
 
「君のやっていること、やろうしていることは偉大なことだとは認める。だが、ぼくらとは目指すところも、活動の姿も違うんだ。だから、キミとは連帯できない。大衆はオリンピックを求めている。オリンピックをつぶすことは、大衆を敵にすることだからね」
 
セクトの男は、革命が流血を伴うことを知っている。だが、その上で、大衆が期待しているものを粉砕することはできないという。
 
青年はいう。「それが、革命ごっごの限界ってことさ…」。
 
秋田のテレビ電波もどどかない、喰うや喰わずの農村で育ち、出稼ぎに出た兄が16時間労働の中で、無理な仕事を続けるために、覚せい剤に手を出し死んだ。自らもその飯場で働き、理不尽な社会の現実を知った。
 
東北からの出稼ぎと死で支えられた、東京ひとり勝ちのオリンピック。眼を向けるべきものはほかにあるのではないか…青年はそのときから孤独なテロリストに変身する。
 
青年のいうとおり、その後の学生運動は、学生を主体として展開し、学生であるがゆえの限界で、70年安保は敗北したのだ。まさに、学生の「革命ごっこ」に過ぎなかった。
 
アメリカ政府は、運動の主体が学生とわかって、就活が始まれば、すべては崩壊すると読んでいた。そして、事実、その通りになったのだ。
 
その後、京浜安保共闘などブントから分かれて、日本赤軍が結成されるが、浅間山荘事件とその前の内部リンチの姿を見ても、「革命ごっこ」が煮詰まって、仲間同士で抜き差しならなくなった末に、到底革命とは程遠い、痴話事件で終わっている。

内ゲバもしかり。「革命ごっこ」は、必ず、自ら崩壊への道をたどる。

だが、それは、いまでは死語といえる、左翼や極左といわれる集団だけのものではない。多くの右翼の顔をしたエセ右翼や極右も同じだ。
 
あるいは、タレントや芸能人、市民運動あがりの政治家や運動家が牽引する、市民運動も、どこかで、「運動ごっこ」に過ぎない。

市民、生活者と寄り添いながら、実は、そこで「ごっこ」をやりたい。弁の立つよその輩がそうやって人々をオルグする。そんな運動は、いまや市民、大衆の心を動かさない。

逆に、そうしたエセが社会改革の運動に増えると、大衆にも迎合せず、かつエセの運動にも同化せず、孤独な殻の中で、自分だけの革命を目指す人間が出てくる。
 
神戸の酒鬼薔薇聖斗にせよ、秋葉の無差別殺傷事件の加藤にせよ、奴らからすれば、それはウソと虚栄のこの国への、意識するとしないにかかわらず、革命でもあったのだ。酒鬼薔薇は明らかにそれを意識していた。
 
だからこそ、社会から、学校から、家庭から、離脱する人間をつくってはならない。規範の中に縛りつけろというのではない。離脱せざるえない人間もいられる、社会にしなくてはいけないということなのだ。

それぞれに、それぞれがいられる居場所。あてがわれるのでもなく、恵まれるのでもなく、自らここにいたいと感じられる居場所を社会につくらなくてはいけない。
 
それは、人が生きる真実が認められ、互いの生活と人権が尊敬される社会だ。