秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

被災地映画

3.11に合わせて、いろいろな催しが行われている。私の作品をノミネートしていただいた江古田映画祭福島を忘れないもそのひとつだ。千代田区のアートスペースでも被災地を舞台にした国内外の作品が上映されてる。

震災当時、私は映画制作とはまったく無関係に現地に入った。映画になるなにかに出会えれば…そんな思いがまったくなかったわけではない。

だが、福島の海岸線の被災地に幾度も足を運び、次第に福島全県のそれぞれに抱えた課題や苦悩と出会ううちに、映画制作のことはどこかへ消えた。

それよりも、直近に福島の人々のために、ひとりの人間として、自分になにができ、なにができないか。できるとすれば、いまやらなければいけないことは何なのか。そして、一時で終わるものではなく、5年先、10年先に実る種は何のか。それを自問するようになっていた。

震災当時からカメラを持参し、回していたのは、私たちNPOの仲間は全員が被災地へ入れるわけでもなく、彼らに私が見聞きした被災地の姿や人を紹介したかったからだった。

ある意味、乱雑に収録している映像が作品にしてまとめられる質のものとも思っていなかったし、普段、制作している作品とは別のものだと考えていた。せいぜい、私たちNPOの活動のひとつとして、福島のいまをネット動画で配信する。そこまでしか考えていなかった。

だが、豊間と薄磯の100日法要を取材して、友人、家族を亡くした方々のコメントを収録したとき、これは、どうしてもまとめて、広く知らせなくてはいけないと思った。そして、まとめられるかもしれないと直感した。

作品としてまとめるにはコストがかかる。だが、そのコストも被災地への支援と考えよう。そう思った。教育や人権、社会教育の市場にリリースしても、反応は薄いだろうと思っていたからだ。

当初から作品をつくる意図で始めていない。まして、被災地の情報としては、岩手や宮城、福島県内の原発事故地域の作品がすでにいくつか出ていた。NHKなどでも機動力を使った取材番組多数あったからだ。

ドキュメントとして2011年9月に東映からリリースした『失われたいのちへ誓う』『いじめなんかいらない!』は、だが、その予想に反して、全国の小中学校や教育機関・人権啓発機関からこれまでにない問い合わせがきた。

そのおかげで、私は仕事よりも福島に時間とコストをかけられるようになったのだ。当初から、これらの作品の売り上げは福島のために使うと決めていた。思いのほか反応がよかったことで、私は2012年、ほぼ1年、コストを負担してもMOVEの活動に専念することができたのだ。

だが、ドラマ作品として長編の本編作品をつくることには抵抗があった。それはいまも変わらない。できたのは、震災から2年が過ぎて、いわきの人とのつながりが広がってからだった。とくに、被災のひどかった地域のみなさんとの出会いとつながりが大きかった。

だが、短編作品だ。一般の劇場公開、ましてやマイナー系の劇場であればあるほど、私はいまも長編の作品をつくることには、強い抵抗がある。

被災地やその他の地域の再生や新生の現実的な取り組みの方が先だといまも思っているからだ。

劇場公開は、収益を考えなくてはいけない。それだけかかわる人や組織が多い。収益度返しで作品はつくれない。当然のことだと思っている。

だから、収益を第一としての被災地を扱った作品はつくりたくない。となると劇場公開作品はつくれない。私にしてみれば、至極当然の理屈なのだ。

マイナー系の劇場公開作品は、なお抵抗があるというのは、マイナー系の上映がいけないといっているのではない。

ある意味、嗜好性の強い人たちが好んで来場する場であるがゆえに、そこに被災地映画を持ってくるのは、かえって、違うのではないかと思っている。

単純だ。バイアスがかかり、映画作品がプロパガンダのようになってしまう。舞台もだが、映画も劇場で公開する以上、テーマ性が強かったとしても、どこかにエンターテイメントがなくてはいけない。私はそう思っている。

大手配給会社では対応してもらえないが、それでも劇場公開をするなら、ただアジテーションをやるだけの映画、政治的な主張のための映画であっては意味がないと思っているのだ。そして、被災地やそこで生きる人たちとの持続的なつながりがなくては、制作した側の意図したものと違うところへ作品がいってしまう。

簡単にいえば、マイナー系になればなるほど、閉じた世界の観衆と閉じた世界でつくられた作品との閉じた世界の歪な共感がつくられてしまうことを嫌っている。

同じ閉じた世界で、それでもある作品性を追求するなら、あえて被災地でなくてもいいはずだ。題材はいくらでも、転がっている。

私も思いや情熱を傾けて作品をつくる。どんなに低予算のものでもそれは変わらない。だが、目指しているのは閉じることではなく、多くの人の共感を生み出すことだ。

どのような作品であれ、地域差や世代差、生活差を越えて、広がるのある共感をとらえられる作品でなくてはいけない。悲しみや喜びや苦難の果てのなにか、社会問題を描くのに、それは被災地でなくてはいけない理由はどこにもない。被災地を使っているだけだ。それは不遜だと私は思う。

また、ことさらに、被災地映画とこだわる必要もない。描かなくてはいけないのは、震災ではなく、人だ。