秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

道具は使うもの

子どもの頃、世の中に出ている人というのは、おしなべて素晴らしい人たちに違いないと思っていた。
 
まだ、世の中の基準が明確で、大人たちの中にも、結果、社会にも範となる人材がいたし、それを支える環境もあったからだ。

だから、マスコミが流す情報も、千差万別、立場や視点は違え、そこに作為や恣意性があるとは思わなかった。
 
しかし、中学生の頃から、それまで教えられ、信じていた価値の体系や基準が、実は、おかしいのではないか…という出来事にいくつも出くわした。出くわしたというより、そういう視点や視座を持つようになったというのが正しいかもしれない。
 
剣道の昇段試験で、地元の剣友会の講師をやり、地域に力のあるオヤジとやりやったことがある。部活に出て、地元の剣友会の道場に顔を出さない奴には、合格していた昇段資格を渡さないと言い出したのだ。
 
オレは、「あんたにそんな権利はない。これは日本剣道連盟がオレたちに昇段を認めたものだ。まして、オレたちは中学校の部活として剣道をやっているのであって、地元の剣友会のためにやっているのではない」と食ってかかった。

これひとつではないが、中学のときに感じていた息苦しい圧力が高校に入ると、一層明らかになってきた。
 
そのひとつひとつの裏側にあるものを自分なりに学び、紐解き、知るうちに、権威や権力、威信や名誉、世に出てているものの大半が、決して素晴らしいものではなく、逆に愚かしく、怪しいものの方が多く、かつ、そこには、策略があり、それを伝える側の意図や恣意性、いわゆる力学が働いていることを知った。

毛沢東の若者に向けた言葉のひとつに、「すべてを疑え」というのがある。
 
いまは、いい子、いい大人、いい社会人、いい部下、いい上司、いいリーダー像がすべてになっている。そうあるために、世の中の情報は取捨選択され、実は、「いい」とされているものが、本当にいいものなのかどうかを問わない。

AKBがヒットすると、あちこちでAKBもどきを始め、小中学生の女子が露出の激しい服や性的に解釈される踊りを人前にさらしても、違和感を感じない。テレビに映る、新聞の記事になることがひとつのステータスになる。
 
そして、伝えられた情報を人々は鵜呑みにし、いい人だと賞賛し、かわいい、かっこいいと囃し立てる。
 
だが、果たして、そこに真実というものはあるのか。いまやテレビ報道の希薄さは明らかになり、かつテレビドラマの不作は語るに値しない。映画の秀逸な作品に出会うことも少なくなっている。そうした時代に、マス情報にばかり頼るあり方でいいのか。

オレにはマス情報=東京としか映らない。東京のミニチュア版をあちこちに広げ、金太郎アメのように、地方から地方を奪う。
 
マス情報がすべて悪いとはいはない。だが、それを使う人間に高いリテラシーと踊らされない冷静さがいる。つまりは、現実に足をしっかりつけていなければ、早晩、すくわれる。

道具は踊らされるものではない。使うものだ。