秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

鶴ヶ城と2.26事件 会津応援バスツアー紀行2

かつて、陸軍の下士官養成学校があった。そのひとつが仙台陸軍教導学校。在京師団に属する連隊の下士官はここで1年間の下士官教育を受けている。

教導の最終関門は野営訓練。いまでも自衛隊の訓練に組まれているが、深い山間部から宿営地に指定された目的地まで食も水も与えられず、自力でたどりつくというものだ。
昭和初期、その野営訓練の最終目的地は会津若松の東山温泉だった。

2.26事件の実行部隊、第一連隊、第三連隊、近衛第三連隊など乃木坂界隈を中心に兵舎のあった部隊の下士官は、実は、ここで1年間の訓練と最終野営訓練を受けている。
 
いま八重の桜で話題になっている鶴ヶ城は、戊辰戦争後、数年間、砲弾を受けた無残な姿のままにされ、陸軍によって天守などすべてが撤去された。その後、陸軍練兵場となった。野営訓練後の部隊到着を受けられる場所だったのだ。

会津若松鶴ヶ城若松城)は、戊辰戦争の折、1キロ以上の距離でも正確に攻撃対象に着弾する2砲の国産アームストロング砲によって痛々しい姿に変わった。だが、会津攻めの中心部隊、板垣退助率いる土佐・肥前連合軍は1か月の攻防戦でも5000人あまりが籠城した鶴ヶ城を落城できなかった。薩摩軍の援護をえて、なんとか降伏へ持ち込んだのだ。鶴ヶ城内の死者は3500あまりに及んでいた。

当時、会津藩の武力が旧式ながらいかに堅牢であったか、そして、それ以上に、会津の人々の故郷を守る思いがいかに深かったがわかる。

話を戻す。福島の山間部に散会し、ひとり野営訓練を続けた下士官たちは、水にもメシにもありつけず、木の根や草をかじりながら、必死の思いで目的地若松を目指していた。
 
疲労困憊と喉の渇き、空腹の中で、ポツリとある民家をみつける。「ああ。助かった…」。倒れ込むように民家の夜の明かりに飛び込むと、百姓夫婦が「兵隊さん。大変でしょう」と、水と食い物、そして一夜の宿を与えてくれた。下士官は、九死に一生をえたように、夫婦がくれた粥をすすり、温かい囲炉裏の火にあたる…
 
だが、ふと気づくと、家の家財道具はほとんどない。子どももひとりもいない…。下士官が尋ねると、家財道具は金に換え、息子は丁稚奉公に出し、娘は東京の遊郭に身売りさせたと重い口で語る。
 
粥には、わずかだが白米があった。当時、兵隊さんは国のために働いてもらっている…という思いが庶民の中にあった。なけなしの米を下士官にふるまっていたのだ。

そして、福島の農民の置かれた実状を下士官は知る。それは、だが、いまに始まったことではない。戊辰戦争後、賊軍となった福島は、中央政府から県予算を削られ、冷遇された。さらには、その後、農家を母体にした自由民権運動の中心地であったため、されに冷遇は拍車をかけていた。ただでさえ、各地に貧農がいる中、福島だけがその手当もされないまま昭和初期を迎えていたのだ。

下士官が温泉に辿りつき、ほかの下士官たちと合流すると、訓練の苦労をねぎらう豪華な膳がひとりひとりの前に置かれた。隣の座敷では、朝鮮や満州の戦争で一儲けした成金連中が役人や高級軍人たちと芸者を揚げて騒いでいる…。
 
下士官たちは、そのとき、だれひとり、膳に箸をつけられなかった。つけられないだけでなく、だれもが、怒りで震えていた。必死で働く農民たちが満足なメシも食えず、娘を身売りしている中、この国の中心にいる輩は、なにひとつ、その現実をみようとしていない…

連隊に戻った下士官たちは、隊の上官に直訴する。「待て。いまオレたちに思うところがある。来るべきときには、おまえたちにもその意図するところを伝えるから」。下士官たちにそう語ったのが、後に、事件を主導したひとり、第三連隊栗原中尉(佐賀出身)だった。

この話は、2・26事件合同慰霊祭の折、生き残った高齢の元下士官の方から伺った話だ。

後に自由民権運動を起す板垣退助会津攻めのトップにおり、鶴ヶ城に砲弾を撃ち込んだ国産アームストロング砲を持っていた佐賀藩の出身者が福島の貧農の現実に怒りを覚えた下士官たちをまとめ、2.26事件を牽引した。その中には、連座で処刑された、渋川善助もいた…不思議なめぐり合わせというしかない。

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