秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

出会いと感謝

人と人が出会う。そこには、それを介在するだれかがいたり、出会いを演出する何かがあったりする。
 
だが、出会った人と人というのは、その介在しただれかやめぐり逢いを演出した何事かを往々にして忘れてしまう。
 
出会った人同士の波長が合えば合うほど、親近感を強く感じれば、感じるほど、そうしたことは起こりやすい。そして、人の力やそれを導き出した出来事そのものを忘れていく。

人や出来事ばかりではない。
 
自分がいま取り組んでいることで、他者からの評価や注目を集めても、それは自分の努力や精進の結果が導き出したもので、それまでに至る経緯の中で出会った人の力、環境を与えてくれたものへの感謝を忘れる。

自分にとって障害となったものがあったとしたら、否定し、批判することはあっても、それがそこに至る道を拓くための力となっているとは、とても思えない。

自分の眼にみえないところで、陰ながら力を貸したものがあったとしても、そこに気づきを持つこともできない。

人はそのようにして、周囲の信頼や期待を裏切っていくものだ。

最初から裏切ろうとか、驕慢になろうとか思ってはいない。背一杯、ひたすら努力し、自分にできる限りの中でなにかに取り組んで努力しているだけだ…と思っている。人の出会いを生かそうと思っただけのことだ…と思い込んでいる。

しかし、そこに、行き届かない感謝の心やいただいたものへの報恩の思いを失わせる罠がある。つまりは、自分の尺度や物差しだけでしか物事の動きを見ていないからだ。

人がこの世で出会う縁は、気持ちのいい縁ばかりではない。不愉快に感じたり、怒りをたぎらせたり、顔も見たくないと思うような縁にも出会う。しかし、人に何かの願いや目標、確かな歩みがあれば、そうしたものすべてが自分の糧となる。

不愉快さや怒りや嫌悪を感じるようなものに手を合わせられる心になれるかどうか。縁を大事にできる人は、そのために心を砕き、思いを馳せ、内省するものだ。批判するのは簡単なことだ。否定し、排除するもの難しことではない。いってみれば、一番簡単な処世術。

それと向き合うという姿勢の中に、ふと見失う人や出来事への感謝の思いに気づきを持つことができる。オレがやっている、私が努力した。それだけでは、そこに気づきを持てない。

人の信頼や尊敬とはいわないまでも、敬意をもってもらえる自分になりたいなら、そこに気づくことだ。
 
上辺の言葉だけなら、それはすぐに人から見透かされる。だからこそ、不愉快な縁をどう自分の中で受けとめられるかを考える努力が必要なのだ。それがあれば、言葉は深みを増す。当然なから、そのとき、あなたの心が変わっているからだ。

いわきの親しい友人が郡山本社に栄転となった。彼を介して出会った人、出来事は数知れない。また、その友人を紹介していれた、友人もいる。いろいろな縁をいただいたことに、また、改めて感謝。