秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

生き様と行動

物事の依頼や頼みを引き受けるというのに、躊躇はある。だが、基本的には、なにかの理由があって、そうしたものと出会っている。

もちろん。引き受けることができることなのか、できないことなのか。判断がいる。それは、基本、自分の力が引き受けられるか、引き受けたとして、かえって迷惑や不具合や不都合を頼んだ人も、頼まれた自分も被ることはないのか。

あるいは、その頼まれ事によって、周囲やだれか別の人たちや集団に不遜なことや迷惑をかけないか。そこまで考える必要がある。

そして、だが、引き受けた以上は、どのようなことでも誠意をもって、誠実に実行する。そのことで、いろいろな大変さや事情が生まれたとしても、最後までやりきる。それが常識というものだ。

不具合がわかっていれば、事前にエクスキューズをしておくというのも、大切なことだと思う。

ブログの更新が少し途絶えた。それは、fbで頼まれていた「感謝のバトン」という、よくその目的や意図しているものがわからない、自分の人生を支えてくれたものや人、それ以外でも、なにかへの感謝を綴るというものに時間をとられていたからだ。

そうした情緒的で、自画撮りのようなものは、本来、好きではない。まして、SNS上で公開するといった類のものでもない。それはいまもそう思っている。

だが、私は、それを社会的なアピールの場にすればいいと考えた。知っておいた方がいい、社会の現状を踏まえながら、それを伝えるためのひとつの方便として、私の自画撮り的文章を使うのであれば、そこに私にとっての意味性を見いだせると考えたからだ。

ひとつの範を示すことで、このどこか情緒的過ぎ、目的やねらいのわらかないもを
転換することができればと考えたのだ。

それが伝わったかどうかはわからない。だが、急ぎの仕事を遅らせたのは、それならば、そこにかかわる意味や意義があると思えたからだ。判断は、読んだ人やこれまで「感謝のバトン」を綴った人たちに任せる。

感謝が足りないといわれ続けていた人間が、こうした形で少しだけだが、感謝の言葉を語った。だが、感謝は、ひとことで語れるものでも、幾人かの人へのものでも、いつくかの物へでもないと私は思っている。

感謝は、その人の生き様と、行動で示すしかない。私にすれば、作品と福島で示すしかない。