問い
世界を感じる。宇宙を体感する。といったことは、どこかカルト的であったり、宗教的であたりするけれど、本来、感性というのは、世界や宇宙を感じるためにあるのだ。
最近は、言葉の意味や文脈をわきまえないまま、感性や感覚という言葉を安易に使う人たちがいるが、オレにいわせれば、それは己の無知さや不勉強の言い訳やごまかしにしか映らない。「感性的なるもの」には、行動と学び、そして、他者とのつながりがないからだ。
もちろん、世界を読み解き、宇宙を理解するのに、行動だけが有効なツールばかりではない。自分という人間の中にある、自分の世界というものを凝視することで、世界や宇宙とつながることもできる。
もちろん、世界を読み解き、宇宙を理解するのに、行動だけが有効なツールばかりではない。自分という人間の中にある、自分の世界というものを凝視することで、世界や宇宙とつながることもできる。
オレも面識のある、福島県三春町に住む、芥川賞作家、玄侑氏は、臨済宗の僧侶らしく、禅によってそれが可能だといろいろな方法で伝えている。
物を書く、あるいは、映画にせよ、舞台にせよ、絵画にせよ、舞踊にせよ、何事かを表現する…というとき、人は自分と向き合わざるえない。世界に、宇宙に発信しようとするいろいろなメッセージや世界観が、実は、自分というものと向き合う中で、つむぎだされ、形にされ、他者、あるいは社会へ届けられるのだ。
しかし、いま、自分探しとか、自分らしくとか、いろいろな言葉で自分をみつめるといったようなことがいわれながら、現実に、自分というものとしっかり向き合っている人はどれほどいるのだろう。
物を書く、あるいは、映画にせよ、舞台にせよ、絵画にせよ、舞踊にせよ、何事かを表現する…というとき、人は自分と向き合わざるえない。世界に、宇宙に発信しようとするいろいろなメッセージや世界観が、実は、自分というものと向き合う中で、つむぎだされ、形にされ、他者、あるいは社会へ届けられるのだ。
しかし、いま、自分探しとか、自分らしくとか、いろいろな言葉で自分をみつめるといったようなことがいわれながら、現実に、自分というものとしっかり向き合っている人はどれほどいるのだろう。
生活の糧を求めることに悪戦苦闘し、享楽に時間と金を費やし、他者を信頼する努力や信頼されるための行動を棚上げにして、表層的な時間と人間関係の中で、いまを生きている…というのが正直なところではないだろうか。
そういう生き方や自分のとらえかたでは、言葉は重みへと行きつかない。心は、確信へとたどりつけない。あるいは、他者の悲しみや痛みを想像力によって補うということも果たせない。
つまりは、世界や宇宙といった広がりへとはつながっていかないのだ。
視点を高く、視座を広く、そして、近視眼で他者や世界をとらえず、はるか先へ目線をおく。そうした、生き方が求められている。3.11は、その次はなにか?ときっとオレたちに問うてくるだろう。
そういう生き方や自分のとらえかたでは、言葉は重みへと行きつかない。心は、確信へとたどりつけない。あるいは、他者の悲しみや痛みを想像力によって補うということも果たせない。
つまりは、世界や宇宙といった広がりへとはつながっていかないのだ。
視点を高く、視座を広く、そして、近視眼で他者や世界をとらえず、はるか先へ目線をおく。そうした、生き方が求められている。3.11は、その次はなにか?ときっとオレたちに問うてくるだろう。
そのときの答えは、意外にそんなところにあるような気がしている。それは、死者たちにオレたちがどう答えるのかという問いにもなっている。