秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

世界の姿は変わってくる

世界は、実はひとつではない。

眼の前の生活の課題や問題にばかり目がいくと、いつか人は、世界はいまある生活の中にあるものが世界だと誤謬する。その延長にあるものが世界だと錯誤する。もっといえば、自分が認識したものだけが世界だと思う。実に不確かで、頼りない生物学的な認識に過ぎないのに。
 
9.11のとき、アメリカが戦慄したのは、テロそのもの以上に、実は、自分たちアメリカこそが世界のグローバルスタンダードであり、アメリカの基準は世界のすべての基準である…という幻想とそれが導く、根拠のない確信を見事に粉砕されたからだ。
 
実は、世界には、アメリカに憎悪をたぎらせている人々がおり、自分たちが絶対だと思う、アメリカの基準を嫌う人たちがいる。
 
中東のアフガンなどという国など、聞いたことも、関心もひかない貧しい国や中東で起きているアラブ(イスラーム)とイスラエルユダヤ)の対立など、直接には自分たちの毎日の生活に影響もなければ、関係ない。

そう思っていた人々に、世界は、おまえたちが見ている世界だけをいうのではない…という現実を悲惨なテロという形で示した。そして、それに、いや、オレたちこそが世界なのだと報復する。それがアフガン空爆であり、イラク戦争だった。

ひとつの水晶体でみる世界がほかの水晶体に同じに見えているわけではない。国や人種や民族によって違うばかりか、個々の水晶体から取り込まれた画像も、それぞれの脳が解析して、これは赤である、これは緑である…と身勝手に認識しているに過ぎない。

すべての人が同じように、同じものをみていながら、その認識の差異は宇宙ほども違う。

以前、クォーターの女性とよく会っていたとき、夜になると蛍光灯が明るすぎるから、暗くして…といわれたことがある。海外の人ならわかるだろう。欧米などでは、部屋は日本人からするととても暗い。明度の認識が違うからだ。

こうした違いや差異を前提として、それを当然として、他者と接するか…自分の情熱や思いや願いだけがあればわかるはずという一方的な思いだけで、他者と接するか…。あるいは、自分の認識力がすべてと考えて、自分の物差しを他者に押し付けるか…

その心と精神の拠り所の位置違いで、その人が見られる世界の姿は変わってくる。