秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自分への問いがない

ある登録サイトに、こんな趣旨の書き込みがあった。原発事故被害に対して「福島県民がいまさら不満をいうのはおかしい…」
 
そこに、説諭するもの、やわらかく反論するもの、いい問題提起だと受けとめつつ、それは福島県民と限定できない、だれもがそうでは…と提起し直すもの…。それぞれが誠意を持って語っているのはわかる。
 
だが、その方が語ろうとしたことの本質や気持が少しもわかっていない。
 
その方は福島の出身、あちこち福島県内を移り住んだ経験もある。そして、ひとりの生活者。子どもの頃から見てきた大人たちの姿を通して、感じていることを言葉にしただけだ。そのことに強く賛同されようとも思ってもいなし、そう発言したことで、何かを提案しようとしたわけでもない。だだ、素直に、何かが違う…、おかしい…。そう感じたことを述べただけなのだ。

そして、その方は意識しないまま、ある大きな問題を提起していた。その問題が大きいだけ、やわな回答やコメントしか返ってこないことに苛立ちを隠せなった…というのが本質だろうと思う。
 
彼女がいいたかったのは、福島県民とはいっているが、いわゆる、福島県民にせよ、彼らに同情を寄せつつ、現実にはその電力で豊かさを享受していた人々への「公民」としての責任意識の問題なのだ。
 
福島の人々が多きな被害にさらされている現実は、みんなが考えながければならない問題だ。一刻も早い復旧、改善策をというのは一応の意見だろう。しかし、その意見を述べるのときの基本姿勢のあり方を彼女は痛烈に問うている。
 
自民党政権時代から、原子力発電は国策だった。基本は、アメリカからの圧力の上に始まった政策。火力においても、水力、さらには、代替エネルギーにおいても、まだまだ開発の余地や電力供給の道があったにもかからず、詭弁を弄して、これまで原発を推進してきた。あたかも、それしか、エネルギー資源はないかのように。
 
ま、それはよしとしよう。しかし、その推進のために、大手電力会社は原発の開発調査の段階、まだ原発をそこに建設するという前から湯水のように、地域に金を注いできた。
国も補助金を湯水のように注いできた。もう一度いうが、それが自民党政権時代のことだ。原発自民党にとって、選挙にも直結できる票田だった。
 
誰もが知る事実だ。原発の地域の道路は都市も見まがうほどの整備がされ、公的施設、社会福祉施設は他の地域とは比べようもないほど充実している。セーフティネットにおいてもしかり。つまり、他の地域ではえられない多くの恩恵を享受するがゆえに、原発に大きく反対してこなかった。あるいは、反対する余地がなかった。
 
それは、都市部にいて、自分たちの電力供給がそうした地域からもたらされていることにまったく無自覚だったこととパラレルだ。
 
そうした中で、東電の社長や役員、管理職に罵声を浴びせ、話が違うと食い下がる。だったら、なぜ、いままで原発についてその危険性を学ぼうとも、あるいは拒否する姿勢を示さなかったのか。他の地域にはない、豊穣な金銭的支援にNOといえなかったのか…
 
いま、政権の対応や東電に石を投げるように非難する都市生活者に、ならば、なぜ、いままで、原発の問題を問い、自分たちはわずかな電力で生活する道を模索するといわなかったのか。
 
その反省や自己批判のないところで、つまりは、おいしいところをいままで享受しながら、事故が起きた瞬間、自分たちの市民、公民としての責任はなく、ひとり、だれかをスケープゴードにする精神、社会のあり方はおかしいだろう!…とその方は叫びたかったのだ。
 
福島を知るがゆえに、そういいたかった。その裏側にあるのは、福島への愛が深いからだ…とオレは感じた。福島よ、変われよ! もう都会や利権、金や物にふりまされるようなことはやらないでくれよ! そうオレには聞こえた。
 
もちろん、これは福島だけの問題ではない、国民全体の問題だ。
 
が、しかし。女川原発近くの被災した地域住民を、震災が起きてすぐ、救援に向かったのは女川原発の社員たちだった。施設内の体育館を開放し、備蓄してあった食料を提供し、高齢者をおぶって、あの震災直後の動乱の中、支援にあたった。いまでも、そこは地域の重要な避難所になっている。原発の中に避難所がある。そして、多くの人がそこに深い感謝を示している…この姿をあなたはどう見るだろう。
 
いま福島第一原発で復旧にあたっているのは、女川原発と同じように、被災した地元に生活を持つ地域住民の職員たちだ。それは自分たちの地域を守ろうとする熱意以外の何ものでもない。
 
正義の定義の中で、サンデルが指摘するように、自分が帰属し、その歴史の文脈の中にあるものは、それを自分が始めたかどうかは別にして、過去の過ちに対して、社会的責任を共有する。それが公民であることの自由を保証している。

東電の対策対応、政権の対応…その問題はきちんと議論しなくてはいけない。しかし、その議論をやるとき、自分たち国民一人一人に責任がなかったような議論のあり方は、その方が指摘するように、間違いなく、おかしい。身勝手な正義ばかりを連呼し、大衆の不安をあおるような情報を拡散し、その先に、あなたたちは、どういう社会、どういう地域、どういう自分たちの生活、あるいは、国を想定しているのか。
 
その確かな答えや答えはなくとも、自分たちのこれまでの生活のあり方を振り返ることなく、他者に石を投げるだけ。それはあなたが、ただ不安やおそれから逃れ、なにかの充足感を得たいためだけではないか。
 
その方の疑問に答える言葉がないということは、あなたが、あなたたちが、それを自らに問い、行動しようとはしていなからだ。