お決まりから自由であること
もう2年もご無沙汰をしていた、大先輩のYさんに連絡する。
Yさんは、かつて政治浄化を目指す研究所の所長をされていて、政界、政治家とのパイプが太い。議員秘書の仕事を探しているTさんのことで、お骨折りしていただけないかと相談したのだ。
用件を伝えると、すぐにわかったの返事。Yさんは、もう70歳近い。しかし、人のために役立つことで、自分が納得し、合点のいくことだとすぐに行動に移す。実践の人なのだ。下手な30代、40代より、頭が柔らかいし、行動力がある。
MOVEという市民シンポを始めた頃、当時、北海道地域の責任者をやっていたYさんに、この取り組みを北海道でもやれないかと相談した。すると、すぐに段取りをしてくれ、三ヶ月後には、社会学者の宮台真司と札幌に飛んで、講演シンポをやることができたのだ。
だが、オレが当てもなく30代の中頃独立したとき、オレのようにわがままで、主張が強く、熱意だけは負けないという人間をおもしろがってかわいがってくれたのは、気骨のある団塊世代とYさんたち世代の先輩たちだった。
いま社会からそういう人たちが次々にリタイアしている。
情もわかれば、情に流されない冷静もある。精神論ではなく、実際の行動でどうしてやれば、人が助かるか、救われるかがわかっている。そして、人の役立つことであれば、惜しまず行動する。そういう人が社会からいなくなっている。
お決まりの段取りやお決まりの考え方に縛られていては、人の心に届く活動、それは、企業の仕事であれ、社会貢献であれ、届きはしないのだ。ときには、常識や規則、こうでなけばという段取りを無視してでも、いいもの、いいことであればやろうという自由さが、この社会から失われつつある。
保身や安全ではなく、危うさはあっても、それに賭けるという気骨がない。だから、仕事も生活もおもしろくなくなる。
だれでもそうだ。ちょっとあぶなっかしいことをやっているときの方が楽しい。それを管理システム、評価主義の中でことごとく排除したら、息が詰まるような毎日とストレスばかりの社会になってしまう。
久しぶりにYさんの元気で、反応の速い声を聞いて、心がさわやかになる。それだけも凄い人だ。その上、多くは語らなくても、オレがわざわざ電話してきたことで、Tさんになんとかよくなってもらいたいと思いもわかっていただいている。
普段、やりとりしなくても、心が通じる。魂がふれあうというのは、こういうことをいうのだと、改めてYさんと出会えたことをありがたいと手を合わせる。