秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

少欲知足の貧乏神さまさま

東京は板橋などで集中豪雨による被害があったものの、多くは梅雨明けの晴天を楽しむことができている。
 
しかし、九州から中国地方、とりわけ広島、さらには岐阜では、死傷者を出す、被害が続出している。被害に遭われた地域や被災した方々にとって、梅雨明けの晴天は、どれほどうらめしく、せつないものだろう。
 
土日と続けて、勉強会だったのだが、もう70歳になるガンを克服した経験のある、尊敬している講師のSさんが、講義前の冒頭の挨拶で、被害が甚大な広島、岐阜の被災地、被災者の方々に思いをはせながら、幸いにしてわずかの被害ですんだ東京にいて、ボランティア精神、それを支える仏教精神の勉強会に参加できる今日のありがたさを語られた。
 
どんなときでも、人を思う。その言葉に、改めてこの勉強会に参加できてよかったとはっとなった。
 
二年間本当に、いろいろなことを教えられたし、考えさせされた。最終日の昨日は、Sさんを始め、教えをいただいたみなさん、同じ学びに励んだ仲間、仲間とはいってもみなさん、オレよりすっと先輩の方たちばかりだったが、共に語り合ったみなさんに心からありがたいという思いでいっぱいになり、感謝の言葉を口していて、思わず涙が溢れそうになった。
 
土曜の夜は、勉強後、赤坂で会社を経営しているKさんと「明るい社会づくり運動」の記録映像の収録のボランティアの件で、打ち合わせをした。
 
このところ、社会的な奉仕活動をやっている方々に、折にふれ、著名ナレーターのTさんの朗読「貧乏神さまさま」をどこかでやれないかと声をかけている。ふとその話になった。
 
すると、Kさんが毎年夏休みの時期、芝公園でやっている、ファミリー向けの「自然観察会」の中で、参加した親子に聞いてもらったらどうだろうと言い出した。わずかな寄付金で運営しているのだが、その実行費の中から、些少の御礼もできるという。
 
昨日、Tさんに相談のメールをすると、早速、事務所のスケジュールで何かない限り、できるだけ協力しますというお返事をいただいた。
 
不思議なことだ。自分の仕事のことでは、ああありたい、こうありたいと願ってもなかなか実現できないことが多いのに、自分のことではなく、だれか多くの方の役立つことができればと取り組んでいると、ふわっと、それを実現するための救いの手が伸びてくる。
 
Kさんは、秋に実施している老健施設でのボランティアのときも、朗読会をやれるのではと、折々にTさんの朗読会をやろうともいってくれた。
 
人によっては、「貧乏神さまさま」(高草洋子作・絵)という創作民話は、貧乏くさい話と侮蔑するかもしれない。少欲知足という仏教精神がその創作民話のテーマになっているのだが、そういう生活をよしとしない人は少なくない。
 
オレ自身、おいしいものが食べたいとも思うし、好きな服は身につけたい。自転車生活だが、たまには車が欲しいと思うこともある。もっと豊かに生活したいという思いは、それ自体、決していけないことではない。
 
だが、人の一生とは、すべからく自分の思い通りにいくものではない。安定し、高収入を得ていても、それが何かの拍子に失われることもある。金や物を失っても、愛すべき人たちや自分を支えてくれる人たちが身近にいれば、まだ救いもあるが、それが事故や天災、病気などで失われることもある。
 
あるいは、自分の感謝の足りない言動で人を失うこともある。
 
どんなに満たされていても、老いることも、老いの次に来る死も、避けることできない。
 
そうしただれにでもあり、だれにでもくる生活の試練や苦難のときに、それをどう受け止めていけるかが、人が生きる上ではとても大事なことだと思う。受け止め方ひとつで、その人の人柄、性格、物の見方、考え方が大きく変っていくからだ。
 
自分の生活に起きるいろいろなことを人のせいにし、人を当てにし、愚痴と文句ばかりでは、人は寄り付かないし、自分の心を深めていくことも、変えることもできない。
 
そうした心をつくっていくために、「貧乏神さまさま」のような話はあるような気がしている。少しでもいまの生活に感謝があれば、余剰なもの、過分なものを得ようという欲は少なくなる。その分は、人様に、という気持ちにもなる。
 
そうなれない自分がいるから、折りにふれ、「貧乏神さまさま」のような少欲知足の話にふれ、自分の心を振り返るのだ。