秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

おやじの愚痴

おやじに笋鬚靴拭

一昨日の午前中、意図してお盆に笋鬚靴討い覆った、おやじに連絡をする。

お盆中は、佐賀の姉のマンションではなく、姉の家のある福岡に戻るという話を姉から聞いていた。

義兄や姉、姪っ子夫婦家族の集まる家では、周囲に気を遣い、いいたいこともいわず、はいはい、と従順にしているおやじの姿が予想がいつていた。そこでは、オレに愚痴のひとつもこぼせないだろうとわかっていたからだ。

おやじはプライドが高い。それでいながら、何かいいたいことや自分の考えがあっても、物事を丸く収めるために、自分のいいたいことを我慢し、自分や周囲に不都合のないよう、穏便に物事をまとめるところがある。そのおかげで、学歴社会の警察官の世界で、ありえない昇進を果たした人間だ。それが、十二指腸潰瘍の原因にもなった。

75歳くらいから体力の衰えを感じるようになると、いうことを利かない体に苛立つようになり、80歳で体力の衰えが決定的になると、おふくろの具合がよくないことや姪っ子が立て続けに嫁いで、自分に頼らなくなったりで、老人性うつ病になってしまった。そして、おふくろに先立たれると、気持ちが弱くなり、いままでいわなかった甘えを言うようになった。

気丈な姉にすれば、立派な父が、気弱なことをいうのが受けとめられなかった。父親にはいつまでも立派でいて欲しいという娘としての思いと、これまでの人生で苦労をかけたおふくろがいながら、警察官を退職した後、女をつくっていた父親への反発もあった。娘であるがゆえの、父への尊敬と反発という葛藤が、父の甘えをずるいと思わせることもある。

以前、毎日、顔を合わせていた、義兄にすれば、血のつながりのないおやじのわがままや甘えに付き合わされてきたのは、負担だったろうと思う。いま一緒に暮らし、毎日顔を合わせている姉にしても、仕事もあり、父には自立して、しっかりしていて欲しいという願いもあると思う。

だから、誰がいけない、誰がいいではない。高齢者と共に生きるといういうのは、それが肉親や近しい人間であるからこそ、目に見えない、行き違いや葛藤が生まれる。それが、高齢者と共にに生きる現実だと思う。体力の衰え、脳の働きや動作の違いを、すぐに理解することは、年若い連中には、できないのだ。

最近、笋垢襪函△やじは、「早く、お迎えが来ないかと、願っている」とこぼす。

お父さんのことをオレはいまでも尊敬している。警察官として、ありえない清廉な仕事をし、社会のためにひたすら働き、罪を憎んで、人を憎まずということを実践してきた姿をオレは見ている。その人生は凄く立派だった。おやじは、頭もいい。仕事もできたと思うと励ます。

しかし、おやじは、「それも、もう消えてしまった」という。

おやじにすれば、若い頃、社会的な実績を築き上げ、それに見合う地位をいくら得ても、いま、足に不具合があり、外出もままならない状態になり、老人性うつ病で思うに気持ちのコントロールもできず、姉を始め、義兄や姪っ子夫婦・家族に気を遣いながら、それに頼ってしか生活できない自分の姿が情けないのだ。

それは無理さ。もう85歳なんだから、50代、60代のようにはいかないよ。

そう言うオレに、「そうたい。それが情けなかとたい」とおやじはいう。それが、おやじのプライドなのだ。

「ただ食って、寝て、生活するだけなら、それは牛や馬と一緒だ」。

ある著名な宗教者が幼い頃、祖父にいわれた言葉だ。

「だから、人の役に立つ、世間の役に立つ人間になれ」。

その宗教者は、それを手掛かりに人を救う宗教者の道を歩んでいった。

人が自分が生きていまあることを喜びとできるのは、だれかに、社会に自分は必要な人間なのだと思われていることだ。自分は求められ、社会に有用な人間だと感じられることで、人は、喜びや幸せをえれらる。

しかし、高齢となり、人生の先もそう長くなく、体力の衰えから、新しい何かを始める余力もなく、自分を有用としているものとの新たな出会いをつくることもできない。高齢者特有の体調の不良はあっても、これといった持病や大病を患っているわけでないとすれば、自分がこれまで生きて来た人生や、いまこうして生きていることの意味を、どう周囲が認めてくれようと、見失うことは珍しいことではないと思う。

相模原の家なら、かみさんや息子がいるから、そこでおやじの面倒を看ることだってできる。そういっても、おやじは、祖父が親戚の家をたらいまわしにされ、迷惑そうな言葉を聞き続けていたから、高齢者が一人、家に入れば、あらぬ緊張や迷惑をかけると思っている。

そんな話をしていたら、思わず、涙が溢れてしまった。

あんなに立派だったおやじに、こんな愚痴をいわせている自分が情けなく、申し訳なくて、嗚咽を止めることができなかった。

本来ならば、長男のオレがおふくろやおやじのことを看なくてはいけないのに、オレは自分のわがままからそれと真逆のことをやってきた。その申し訳なさと、何もできない自分のふがいなさに、気持ちを抑えることができなかったのだ。

「電話くれて、うれしかった…。長話をすると疲れるけん」とおやじは電話を切った。オレが抑えれらない気持ちになっていることを察して、気持ちを乱してはいけないと思ったのがわかった。仕事の邪魔になってはいけない、そんな思いだったのだと思う。

身近な人間に何ひとつ安心させてやれる材料もなく、周囲の人間を犠牲にして、自分の人生を生きようとしているオレの愚かさを改めて指摘されているようで、やるせなかった。

お父さん、もう少し、生きていてくれよ。それをいうのがせいいっぱいだった。生きて、生き続けて、85歳のおやじに何があるのか。オレが何をしてやれるのか。それもわからないまま、そう言うしかなかったのだ。

2009年の夏。それはこの国の転換の夏。同時に、オレの転換の夏だと強く予感する。