秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日本海軍反省会

今朝、地震で眼を覚ます。そういう人は多かったに違いない。

夏とは思えない、集中豪雨続き。西日本の雨が一息ついたと思ったら、台風9号。死者行方不明者の数は増え続けている。長引く雨で、農作物に深刻な被害で出ている。そこに、地震東名高速は、陥没した箇所ができ、物流に支障が出るばかりでなく、お盆の人手にも影響する。

その数日前は皆既日食。一昔前なら、不吉の兆しとされたところだ。

一方で、芸能界の薬物汚染の実態が表に出る。しかし、実は、芸能界も一般社会も薬物の蔓延は同じようなもの。しかし、押尾の六本木マンションでの変死事件の周辺捜査が進まない。一説には、マンションオーナーのピーチ・ジョン社長が政界・財界にコネクションをつくるための接待部屋だったともいわれている。周辺捜査が遅々として進まないのは、そのためか?

酒井法子にいたっては、起訴猶予処分まで噂されている。最高裁裁判員制度PRのプロモーションドラマの主役をやったことと何か関係があるのでは…。そもそも、酒井法子の影にいる人間たちの姿が見えない。意図して、背後にある闇を隠しているような雰囲気がある。

薬物、買春、変死事件が芸能界裏社会を巻き込んで起きると、政財界のかかわりが噂される。そうなると、途端に、検察が手温い。

一方で、クサナギの事件のように、恣意的な検察の捜査があったり、裁判所の政権の意図を踏まえた判決が出たりする。この数年、明らかに司法の動きに、恣意性や意図性が感じられる。何か、暗黙のうちに、こうしていいことと、こうしてはいけないことが決められ、それに異議を唱えることが内部でもできない空気が生まれているのではないか?

一昨日からNHKスペシャルで、『日本海軍反省会 400時間の証言』が放映されている。

本日までの三夜連続。第一回は、どうやって太平洋戦争が開戦に至ったか。「海軍ありて、国家なし」。第二回は、特別攻撃隊、いわゆる神風特攻隊や人間魚雷回天など、死を前提とした非人道的作戦がどうして実施されたのか。「特攻 やましき沈黙」。第3回の今日は、「戦犯裁判 第二の戦争」。当時、海軍を指揮していた軍令部の高級将校がなぜ、戦犯として処分されず、その後自衛隊の幕僚長など要職につけたのか。

かつて、日本軍の作戦行動すべてを指揮していたのは、大本営参謀本部だが、実際には、陸海軍の軍令部が実質的な権限を持っていた。とりわけ、島国日本で、戦争遂行のためには、海軍の力は、陸軍以上に強かった。

戦前、戦時下、敗戦の過程で、当時、日本軍の動向の鍵を握っていた、海軍軍令部の高級将校。日本だけで、300万人もの戦死者、戦争犠牲者を生んだ、あの戦争を実行し、彼らの命を奪ってきた将校たちだ。彼がが、昭和54年頃から始め、400時間に登る、反省会をやった。敗戦当時は、明るみにできなかった戦争の真実を語り、同じ過ちをしないためにという目的で開催された、議論だ。その記録が、先頃、公にされた。

第一回は、海軍の軍備費獲得のため、勝利のためのさしたる計画やシュミレーションもなく、開戦へと進んだいい加減さが描かれていた。第二回は、やむにやまれず、各隊が、志願兵によって特攻を行ったとGHQに語り、軍令部の戦争責任を回避しながら、実は、特攻作戦実施の1年前も前から、特攻用兵器の開発を軍令部の指示によって実施していたことを明るみにした。現実には志願兵でなく、学徒出陣などによって徴兵された比較的学力のある若者を、にわか航空兵にし、戦闘技術がないからと体当たりをさせたのだ。

開戦、特攻、戦争責任といった、ターニングポイントとなった転換点で、それを牽引した幾人かの固有名詞が上がっている。しかし、個々の戦争責任を糾弾することも重要だが、そもそも、たいした戦略も戦術もなく、なんとはない勢い、ノリであの戦争が始まり、特攻などという愚かな作戦が実施されながら、敗戦後、責任は自分たちにはないと言い切った、その集団意識、組織の隠蔽主義、国民・国家不在の考えが、当然の空気とされたことが問題なのだ。

言い出したのは、一人か、二人。それを支持する人間が増え、やがて、それが軍令部全体の意志となり、国家の意志とされていく。だから、明確にだれが責任をとるのかがうやむやにされる。言い出した人間は、「いったのはオレかもしれないが、それにみんな賛同したじゃないか」となる。賛同した連中も、「賛同しのは、オレだけじゃない」となる。だが、共通なのは、日本海軍の威信と誇りと守るといった狭隘なもの。

部署部署の仕事に忙殺され、全体をコントロールし、俯瞰してそのあり方を検証する人間がいない。それが、情緒や心情にまかせた、作戦行動を当然とする空気を生み、それが間違っているとわかりながら、異議を唱えること、そのものができなくなってしまう。

今週のOUTでも、日本のファシズムの情感的な側面を述べて、ドイツのそれではなく、イタリアのそれに限りなく近いと述べた。まさに、それを裏付ける当時の実態が、当事者である高級将校たちの肉声で語られている。

しかし、その反省は、いまの日本の政治、行政、企業、団体の姿の中に、果たして生かされているだろうか。検察や裁判所、現在の官僚主導の政治、企業のリストラ、非正規雇用切りを見れば、それは一目瞭然だ。

ことなかれ主義で、自分たちの権益が守ることに戦々恐々とし、国民、国家のことを本気で考えることもない。市民生活、庶民の暮らし。そこに根を張り、市民のために、社員一人のために、生活者のために、身を粉にして働く、官僚、リーダーが不在の時代。

だれも責任をとあらず、だれも、他者のために命を削らない。

戦後64年の今年の夏。大転換の時代のがけっぷちで、天候不順、天災、異常気象が起きる。不況、企業倒産、失業率増加と先が見えない。それが、沖縄守備隊が玉砕した夏、広島、長崎に原爆が投下された、この夏、敗戦記念日のこの夏に起きている。

それは、オレたち日本人に、何か天の啓示が与えれられているのではないか。

そう考えるのは、オレだけだろうか…。