秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

この国のあるべき姿

数年前の東京都人権啓発企業連絡会での講演のときだった。

オレが監督した映画の上映会の後、講演をし、質疑応答になった。質問者のひとりが、尋ねた。

「自分は性善説を信じているのですが、監督の話は、どちらかというと性悪説で、差別や偏見はあって当然なものという考えと理解してよろしんでしょうか?」

そういう趣旨の話をしたつもりはなかったが、こちらの言葉足りずだったのだろうと、反論はせず、基本的には、その通りです」と答え、こういった。

「差別はいけない。偏見はいけない。それは、人々の心が安定しているとき、世の中、社会が安定しているときには、そうできるし、いえますます。しかし、生活の苦しみ、人との対立や社会の荒廃、紛争や戦争といった問題が起きると、人間はいかにようにも変る」

「不安定な心、不安定な社会が来ると、人間は簡単に悪意を生きることができる。それは、過去のこの国の戦争を見ても、いま現実に世界で起きている紛争を見ても、もっといえば、有史以来の人間の歴史を見ても、歴然とした事実です」

「だから、人間は、それほど弱く、いい加減な存在だという認識が必要だということです。追いつめられたり、自分のいのちや生活が侵されそうになれば、何をやらかすかわからない。そんな頼りない存在なのだということを常に忘れてはならないと思うのです」

「ですから、人間にはよいところがあるから、そのよい部分が最終的には、人間を救ってくれるという考えは、否定しませんが、それだけではなく、悪意を生きられないシステムを事前に用意しておく必要があるとお話したのです」

「差別や偏見をやれば、これだけの社会的不利益を受ける。これだけの社会的制裁を受ける。ゆえに、自分の心が弱ったからといって、他者を傷つける行為はやっては、損だ、という認識を植えつけるシステムや教育が、これからの社会には必要だろうと申し上げたのです」

質問者の周辺に座っていた多くの人が、オレのその言葉に頷いていた。

このところ、押尾や酒井の薬物事案で、薬物の蔓延が改めて、取りざたされている。前にも書いたが、薬物にいってしまう人間を法だけで裁いても、薬物使用を止めることはできない。薬物の裏社会、非日常社会のシステム全体をおおもとから根絶しないと真の問題解決にはならないのだ。

しかし、何より問題なのは、薬物使用にいってしまう、人間を生む社会のあり方だ。薬物使用者をバッシングすれば、それで問題が終わるのではない。

いつもオレがいうように、人間は実に弱い存在だ。お金持ちであろうと、社会的に地位のある人間であろうと、一見、陽気に見える人間であろうと、生きていく上で、人には、だれしも悩みや苦しみ、不満や不平がある。挫折や失敗を経験すれば、なお、そうなる。

人が生きる上で、人間的な感情があるがゆえに、執着も生まれれば、見栄や体裁もある。それが人が苦しむ大きな要因だが、それがあるゆえに、親子、夫婦、男女には愛憎もあるし、職場、学校、サークルには、妬みも恨みも生まれるのだ。

人間がこの世を生きるということは、そうした人間社会の悪しきものと付き合いながら生きていくということだ。自分自身の中にある、それに気づきながら生きていくということだ。

完璧で、非の打ち所のない人間などいはしない。自分の愚かさ、無力さ、傲慢さ、思慮の浅さ、それゆえに、自分自身が生んでいる人間関係の不具合に目覚めない限り、自分の弱さを何かでまぎらす、ごまかすということを繰り返すしかなくなる。

オレのような歳になっても、まだ、その葛藤や戦いが続いている。自分をどう乗り越えるか。自分自身の弱さとどう向き合うか。常に、心の中に、それがある。しかし、冷静に振り返れば、自分の前の壁や問題、弱さは、すべて自分が招いているものだと思う。自分の弱さが悪しき縁を招き、悪しき心に穢れさせる。

そうした自分自身の弱さを自覚できる、人間関係、社会、国の姿が必要なのだ。「弱い人間に、お前は弱いからダメだ」といったところで、人は救われない。自分の弱さが自分の不利益を招いていると理解させれば、人は目覚める。苦しみにあってこそ、気づける自分の姿がある。

否定ではなく、弱さに共感し、排除ではなく、そこから立ち上がることを応援する社会だ。

罪を裁くことと、人が生きやすい社会をつくるために、慈愛を与えることは矛盾しない。慈愛がないところに、悪意の循環と人々の心の荒廃が生まれている。

商業主義と競争社会で人心がめちゃめちゃにされたこの国に必要なのは、法と道徳を混同しない、人間の弱さを受け入れ、人を活かす社会の姿なのだ。