秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

凛として律するもの

NHKスペシャルが戦後70年を検証する番組「ニッポンの肖像」をスタートさせた。

第一回は、日本人と象徴天皇 “戦後はこうして誕生した” 第二回は、その続編。

NHKの報道がすっかりこれまでと姿を変えていく中、いま世間にはびこるバイアスと欺瞞に満ちた、歪んだ歴史認識、戦前戦中戦後史の歪曲に、まっこうから、かつ、史実と天皇の言動の記録映像を軸に的確に反論していた。

そして、日本国憲法が決して、マッカーサーや当時のGHQによってつくられ、民意に反して押し付けられたものではない史実も資料を通して明確に証明している。

これは、まともな歴史学者政治学者であれば、だれもが当然としている真実だ。感情論やサヨク的立場でそう主張しているのではない。身勝手な都合のいい解釈で、まったく史実を学ぼうとしないネトウヨ歴史認識の歪曲で育った政治家があれはサヨクの研究だといっているものだ。

そして、これを徹底して遵守しようとしたのが、天皇家といっていいだろう。当然、先の戦争への責任感からだ。

戦後日本において、もっとも強く戦争責任を自覚していたのは、天皇家の人々だった。それは、高松宮宣仁親王親王妃喜久子さまの強い希望で出版された、『高松宮日記』を読めばわかる。

そして、その発露として非戦の誓いがある。

象徴天皇とは、戦後日本がかかえていかなくてはならない戦争責任を一身に引き受ける象徴でもあったのだ。ゆえに、天皇家にあって、非戦の誓いは絶対のものだった。

少なくとも、天皇の名において、320万人の日本人がその意志の有無にかかわらず、いのちを落とし、負傷者被災者はその倍以上になる。国内だけでなく、欧米はもとよりアジア諸国、太平洋諸島に与えた戦火の傷と人の死も膨大なものだ。

その責任を自覚し、象徴としてできる限りにおいて、戦争責任を引き受け、日本国憲法天皇が準じていながら、どうして、それを無視して憲法改正報道規制歴史認識の歪曲を平然とこの国はできるのだろう。

宮台真司氏や幾人かの有識者はよく知っているが、私は、芝居と小説の関係で、2.26事件を徹底的に研究し、それだけではなく、慰霊祭が中止されるまで、40代から50代まで通い続けていた。

部隊に属しながらも下士官ではなかったがゆえに処罰されず生き延びた方の証言や処罰する側だった元憲兵の証言も直接聴いた。

ロンドン軍縮会議において、天皇統帥権を侵害した軍上層部と貧農にあえぐ国民生活の中でさらなる徴税を必要とする大陸進出に強く反発したのが2.26事件の実体だ。そこには、天皇統帥権という明治憲法への遵守があった。これは、東映映画『動乱』がかなり史実に忠実に虚構化している。

だが、現実には、明治維新の際に木戸孝充と岩倉具視の間でやりとりされた文書にあったように、天皇を玉と比喩して、玉さえとれば、国は我が手中という考えは、明治維新以後、この国を我が意のままに動かす権力の害虫たちに自明のことになっていた。

天皇とは名ばかりで、枢密院と一部軍人でいかようにも舵取りできる。東大名誉教授で憲法学者、政治家だった美濃部達吉が指摘した「天皇機関説」だ。天皇は治世者の道具でしかない。ゆえに、天皇の戦争責任はないというものだ。

2.26の若い将校たちがこの天皇の立場を理解していたら、事件を起し、天皇の逆鱗にふれ、処刑されることもなかっただろう。戦後、昭和天皇は、これまでの人生の中で悔いることがあったら…という記者の質問に、一度だけ、2.26の将校たちに無念なことをしたという趣旨の発言をしている。

いまこの国は、象徴天皇として、天皇家だけに戦争責任を負わせ、自らはまったく戦争責任はなく、有事に際して対応できる軍事力が必要だと言い出している。責任を感じていないから、非戦などありえない。非戦がありえないから、憲法を変える。

根幹にあるのは、責任は自分たちにはないという前提だ。

格差も、地方の疲弊も、原発事故も、沖縄も、さしたる準備もないテロ戦争へも、自分たちは責任はなく、もううじうじした反省などやってられないから、逆に近隣諸国やテロ指定国家を悪者にし、アメリカの弟分の証に沖縄県民を犠牲にして、いい顔をしていきたい…

戦前戦中戦後の罪は、それを象徴天皇に唯一背負わせて。

この国には、欧米、中東にあるような国民が合意する共通の宗教理念がない。しかし、現実には、あったのだ。それを明治以後、軍国化という近代化の中で捨ててきた。

それが天皇だ。

それによって、年長者を敬う思いも、相互扶助の精神も、社会にあるべき倫理や規範も失われ、人々は責任や矜持を喪失した。凛として、律するものを失くしたのだ。

いまの国政はおかしいから、英国のように、天皇国家元首とした方がこの国はよほどよくなる。