秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

脳天気なこの国の姿

映画『ROOKIS』と『余命一ヶ月の花嫁』が今期の邦画興行成績を上げている。

いずれもTBSの作品。一つは、連ドラ、一つは、報道特集で話題になり、書籍になり、そして、映画化された。CXグループが『踊る大走査線』の連ドラを映画化し、大ヒットさせ、映画事業部を立ち上げて、連ドラでヒットしたドラマを映画化するというビジネスモデルを成立させてから、テレビ朝日の『相棒』など、いまでは、テレビ資本が映画産業の一翼を担うようになった。NHKまでも、連ドラの『ハゲタカ』を映画化している。映画産業で、テレビ業界が凌ぎを削るという状況が生まれているのだ。

東映の話題作だが、地味な作品『剱岳』(近日公開予定)にも、CXが参入するといった現象が出ている。つまり、テレビ会社が、自社作品以外のコテコテ映画人が制作する作品に、スポンサー、クライアントとして資本参加するという形だ。この間、米国アカデミー賞外国映画部門賞を受賞した、オレが最悪映画といっている『おくりびと』もTBSの制作。それだけ、映画会社、映画人だけで映画を撮ることが難しくなっている。

制作実行委員会という形で、テレビ、広告代理店、衛星放送、映画配給会社、商社、CM制作会社、大手タレント事務所というように複数企業が資本を出し合い、リスクヘッジをし、その投資に見合う歩合で利益を分配するというシステムでは、大きな資本が動かせ、代理店や商社との結びつきが強いテレビ会社、大手プロダクションは強い。映画はテレビ化している、タレント化しているといわれるのは、それが理由だ。

結果、テレビを観る延長で映画にふれる観客が増大する。カンヌで受賞するような映画芸術といった作品ではなく、大衆受けする企画や内容の映画が主流となり、大衆受けする企画や内容でなければ、劇場公開が難しい状況が生まれる。しかし、それは、同時に、映画を痩せさせる。

観客動員がうまくいって、投下資本に見合う利益回収が最優先だから、当然、その内容、質、落とし所は、テレビファンが満足するものになる。その一方で、テレビより映画の方が文化的に上位という認識が映像業界にはあるから、タレントもテレビ局も映画に参入できるとなれば、そこに魅力を感じ、資金とネットワークにものをいわせ、テレビ的作品を量産することになる。それが、映画らしい映画の制作を難しくしている。

元凶は、映画人のていたらくだ。これまで、映画会社、撮影所の世界だけに閉じて、映画会社自らがビジネスモデルをつくることをしてこなかった。というか、ビジネスモデルという言葉さえ、知らなかった。ビジネスモデルに目覚めれば、東宝のように、映画を商品として扱う商社のようになり、自主制作をしなくなる。ビジネスモデルのない、東映や松竹は、大御所監督のネームバリューに頼るか、小説やコミックの原作本と出演俳優のネームバリューに頼るしかない。制作費をどこかの企業や金を集める力のある個人が負担するということでもないと、単独で映画制作に踏み切ることもできない。

結局、受けねらいの日本人の女、子どもに受けるだけの映画しかつくられなくなる。そして、それがコマーシャルベースに乗り、作品の良し悪しや内容の深さは関係なく、大ヒットすることになる。まさに、角川春樹が開いたビジネスモデルが、いま大きく開花している。当時の角川映画の内容のなさとくだらなさは、映画をダメした。それと同じことを、いまの邦画界はやっている。

何かにつけ、オレはいうが、かつて小劇場が演劇の主流となっていた頃、東宝の帝劇や芸術座でも、質の高い商業演劇を量産していた。サブカルは、ハイカルというものが磐石なときほど、その力を発揮する。そこから、珠玉の名作も量産された。双方に刺激があり、そこからいい作品が生まれたのだ。

この国の文化というのは、能楽狂言、歌舞伎、日本舞踊など、世界に誇れる芸術性を持っているのに、映画についていえば、日本国内、日本人だけが寄り集まって、日本人同士で、泣いたり、感動したり、喜んだりする映画しか創っていない。その負い目もあってか、海外の映画祭に作品を出品し、賞取り合戦にやっきになる。

しかし、実は、海外の映画祭も、ロビースト活動で受賞の有無が左右されるところがある。カンヌなどでも、プロデューサーや営業の連中が、審査員とのパーティに頻繁に顔を出し、上映劇場へ足を運ぶように人間関係をつくり、内容のよさをプレゼンすることから始めなくてはならない。話題も関心もない作品は、観てもくれないからだ。いわば、テクニックがいるということ。そうなれば、資金や外国人受けする話題のある作品が強い。日本ではほとんど評価されていない、素人並の作品が監督賞を受賞するということもできてしまう。

商売だから、それはそれでやむえないところもあるが、芝居や演技についての知識や才能もなくつくられ、情感だけに訴える作品ばかりでは、日本映画はいつまで経っても、日本だけの世界で、女、子どものオモチャという立場から脱却できはしない。日本人の日本人による、日本人だけのための映画。

一部の企業や人が贅沢三昧し、政府の税金無駄使いが許される一方で、庶民生活は疲弊し、先進国トップの自殺者を生む、不条理極まりない、日本なのに、その不満も、不条理も描けない日本の映画は、いかがなものか。

映画や演劇は時代を写す鏡だといわれている。まさに、脳天気なこの国の姿を、それは見事に写している。