秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

明日を拓くもの

さすがに体が重く、昨日は朝起きたときから、今日は休み!と決め込んだ。

やらなければいけないことはあるが、こういうときは、どこかで、開き直って、今日は仕事をしないと決めないと体のケアができない。

疲れが限界に来たら、気分が落ちたら、水泳か、ウォーキング・ジョギングか、マッサージ。前にも書いたが、オレは、そう決めている。で、いつもの赤坂の出張マッサージ、吉田院に連絡。この間、酒豪編集者Rに企画書を読ませる間、マッサージをして、奴に、「男二人、隣の部屋で、うっ、とか、あっ、とか、いってて、女が一人で、企画書読んでるって、どういうシチュエーションよ」といわせたときと、同じ先生を指名する。

そのとき、初めて来た、新しい先生の指技にやられてしまっていたのだ。長引いていた50肩も、その先生のマッサージを受けた途端に軽くなった。それからしばらく調子がよかった。

いままでの先生も上手だったが、彼の指技はすごい。じわっと、押し込んできて、最後にぐいっとひとひねりくる。手の指が大きく、ツボをがっちりこねくりまわしてくれる。ほんとに、凝り固まっていた疲れが、そこから、すっと抜けていくような心地よさがあるのだ。ビンビン痛みが走るところもあるが、とにかく、そのねちねちした、指技がいい。きっと、エロい人なんだろうなと思いつつ、2時間もα波の快感に浸る。

おかげで、体が軽くなった。痛みが再発しつつあった50肩もすっと落ち着いた。27日の撮影が終わると、その後、怒涛のように作品を仕上げなくてはならないのが見えているから、それまでにRの企画書は終わらせたいのだ。そのためにも、昨日は一日、自分のためだけの時間を過ごそうと決めていた。

指揮者の小沢征爾が、師匠のカラヤンのことでおもしろいことを言ったことがある。

高齢のカラヤンのコンサートがあると聞いて、これは見逃してはならないと、はるばるボストンから来た小沢は、コンサート終了後、パーティでカラヤンと盛り上がった。そして、翌日の午後、再び、カラヤンに挨拶にいったとき、その疲れのない、生き生きした、ツヤツヤ肌のカラヤンの姿に驚嘆する。

「たぶん、カラヤン先生は、パーティが終わった後、すぐに体のケアをして、熟睡し、今朝、目覚めるとプールでひと泳ぎして、昨夜の疲れをすっかり抜いている。すごい。本当にすごい指揮者だ!」。

オーケストラの指揮者は体力勝負とよく言われる。ある意味、舞台演出家や映画監督と似ている。

演奏者と顔合わせをし、コンサートの練習へ入る前に、まず、譜面を徹底的に読む。演奏する曲目もさることながら、演目以外の同じ作曲家の譜面にも一通り目を通す。そのつくられた時代や歴史なども、改めて勉強するのだ。そして、どう指揮をするか、ひたらすら研究し、構想を練り、その構想を演奏者たち、ひとりひとりに伝えていく。意見の違いがあれば、それを調整し、時には議論する。そうやって、アンサンブルをつくるのだ。

一回の演奏会に数ヶ月の時間をかける。その体力、気力は、大劇場の舞台演出にも劣らない。華やかな演奏会の裏には、そうした積み重ねがあり、演奏が終われば、心身共に疲労困憊状態なのだ。

しかし、次のコンサートがある。だから、疲れをできるだけ残さない工夫がいる。それに徹底しているカラヤンの姿に、小沢は驚嘆したのだ。高齢になってもなお、その心がけを怠らない。当然、その姿勢は楽団にも伝わり、演奏の質にも反映する。

ささいなことのようだが、そうした自分の体のケアをきちんとするという地道な努力があればこそ、世界に冠たる指揮者にもなれたのだ。

こうしたコツコツとした日々の積み重ねの向こうにしか、いいパフォーマンスは生まれない。驚くような演奏の質も、斬新な解釈も、人を驚嘆させるアンサンブルも、そのコツコツとした、当たり前のようにやる日々のルーティンワークの中にしかない。

この映像を小沢のドキュメンタリーで見てから、オレは、自分の体のケアを強く意識するようになった。人をまとめ、掌握し、何事かを表現しようとする人間には、絶対に必要な意識だと思ったからだ。

先頭を走る人間が、リーダーと言われる人間が、昨日の疲れを残したような表情やうかない、元気のない姿では、人はついてはいけない。信頼も得られない。クリエーターとしての厳格さやわがままはあるにせよ、自分が輝くための努力をしない人間には、いいパフォーマンスはできない。

どんな試練があっても、自分の仕事を楽しもうとする心だ。自分を楽しめる心だ。

バブル崩壊後、この国には、そうしたマインドがどんどん薄れているような気がする。日々のルーティンワークが形ばかりになり、それが積み重ねになっていない。この単純な積み重ねに喜びを見出し、人間として、生活の質を上げることの希望を失っている。いわゆる、だらしないことがだらしないとは思われない日常になっている。それでは、個人の幸福も、社会の幸福もみつけられはしない。

日々のルーティンワーク。人の心を前向きにし、明日への期待を抱かせるのも、それを大事にするところにしか始まらない。