能楽とバーンスタイン
見るつもりでいたわけでなく、番組表にレナード・バーンスタインの名前をみつけて、思わずチャンネルを合わせてしまった。
クラッシック好きで、その中でも、オペラと同じくらい、グスタフ・マーラーが大好きという、オレのような人間にとって、バーンスタインは欠かせない指揮者だからだ。バーンスタインほど、マーラーを現代的に指揮する指揮者はいなかった。
それは、彼が伝統のあるヨーロッパではなく、ジャズやボサノバもあるワールドミュージックのアメリカで音楽教育を受けたことと無縁ではないと思っている。
その二人の最初の出会いのエピソードに鳥肌が立った。
指揮台にあがると、バーンスタインは、佐渡に聞いた。「能の面はいつあるか、君は知っているか?」。佐渡が知らないと答えると、そこから約30分、バーンスタインは能について語り始めた。(ちなみに、能面の数は、小面、般若、翁といったものを含め、100種類以上あるといわれている)
体をひとつ変えるだけで、場面が変わり、超スローモーションの足の運びで、時空を超えてしまう。その能の凝縮された、極地といってもいい美的所作は、日本人でなければできない所作であり、高い音楽性がそこにあるからだという類の話を語り、「ここにいる佐渡という指揮者は、その国から来たすぐれた指揮者なのだ」と、紹介したのだ。
そして、レッスンが終わると、「さぁ、オレと握手をしよう」といいながら、離れたところから、自分の手を差し出し、佐渡にいった。「この離れたところから、ゆっくり、互いに手を近づけよう」。
つまり、能の所作を、握手の動作の中で、演技してみせようとしたのだ。「もっと、ゆっくり!」。バーンスタインは、そう指示しながら、驚くほどの時間をかけて、二人は重なるところまで、手を伸ばす。
そして、会場が水を打ったように、二人の驚くほどゆるやかな動きに固唾をのんで、みつめていると、ある瞬間、「ここだ!」と叫んで、バーンスタインは、グッと佐渡の手を握った。そのとき、まるで、オーケストラの大きく重奏し、高鳴って終わるエンディングのような衝撃が、佐渡を襲った。
いや、佐渡だけではかっただろう。会場の中の張りつめた空気が一気に、爆発的に解放される瞬間をその場に居合わせた人間は感じたに違いない。
そのとき、バーンスタインは、何を伝えたかったのか。
それは、まさに、オレが常に俳優たちにいっている、演技の本質であり、演劇や映画は音楽であるという、たったひとつの、しかし、音楽におても、絵画においても、そして、演劇や映画においても、共通のテーマなのだ。
抑制と緊張、休止と動き、音と音の連続にある言葉にならない、言葉。それらが、幾重にも重なり合い、時にはぶつかりながら、ひとつの終焉に向かって展開していく。
それはすべて、人間の身体を通してしか、表現できないということなのだ。なぜなら、美術家も、音楽家も、監督も、俳優も、人間であるからだ。身体性を抜きにしては、何事も表現できない存在だからだ。
しかし、驚いたのは、あのバーンスタインが、能の学習からそれを学んでいたということだ。