秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

だれか書いてくれないかねぇ

残された者、生き延びている者には使命がある…またそう思わせる親友の訃報を知った。亡くなったのはひと月前。

 

大仰なことや派手なことが好きではなかった。だからだろう。葬儀もお別れの会もなく、身内での見送りだったらしい。突然の死だったこともある。

 

つい昨年まで大学教授だった。退官してから論文書籍の執筆中だったこともあるかもしれないが、あまりの急な死だったために、関係方面への連絡や身辺整理、資料整理であっというまのひと月だったのかもしれない。妻子とは別居生活で、ほぼ単身暮らしだったから、奴の執筆資料の整理だけでも大変だったろうと思う。

この数年は毎年、正月と盆に、電話をくれていた。近況の報告と互いの仕事のことが主な話題だが、学生時代からの癖で、政治経済から社会問題、世界情勢まで尽きることがない奴だった。大学1年からの付き合いで、それが自然なことだった。


入学してまもなく、必須の英語の授業で声をかけて来たのは、奴の方からだ。研究者への道ヘ進んでからは想像もできないが、当時はアクティブな奴で、クラスで目を付けた人間を呼び集め、勉強会のようなものを始めた。

コアになるひとりとして、オレに白羽の矢を立てたのは、奴らより遅れて大学に入ったオレに思想的なにおいを直感したからだった。それは的中していた。だが、政治や思想と距離を置き、大学では英文学と演劇研究、シナリオ執筆に専念しようとしていた。それを引き戻したのは、紛れもなく奴だ。

とはいえ、貧しい学生たちだったから、四畳半のアパートで持ち寄りで料理を囲み酒を飲み、議論し合うだけ。それぞれ専攻に移ってからも、勉強会は続け、卒業論文集までつくってしまった。それぞれの進む道で社会変革を起こすというのが根底にあったが、それを続けたのは、結局、オレと奴だけになった。

人の面倒を診るのをいやがりながら、いつも世話役をやっていたのは奴だ。オレが劇団時代、芝居の上演費用のために、何人もの女性と付き合い、それがバレて吊るし首に合いそうになったとき、女性たちの相談相手になり、オレをけなしながら、事を丸く収めてくれたもの奴だった。

厳しい環境にあえて身を置くのが奴の流儀で、相当にしんどい事でもあえて挑み続けた。研究の道以外は、自己主張をしないで、何でもがまんの男。オレにはとてもマネのできるものではない。ねっからの研究者だったのかもしれない。

奴が最後に電話で話したとき、いつもの口癖のようにいった。「だれかいないかねぇ。オレたちの学生時代を書いてくれる奴…」。オレはリアル過ぎてどこかに虚構がないと無理だと返した。だが、奴の思惑はわかっている。オレに書かせたかったのだ。

こんなに早く先に逝きやがって…。生き延びた奴の使命って奴を、あいつはオレに担わせやがった。