秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

踏み絵を突き付けた銃弾

遠藤周作の小説「沈黙」。国内外で映画化・舞台化されて来たが、記憶に新しいのは、2016年公開された『沈黙 サイレント』(監督マーティン・スコセッシ 主演アンドリュー・ガーフィールド)だろう。※余談だが、この映画公開のあと、私は札幌駅の千歳空港へ向かうホームでアンドリュー・ガーフィールドに会っている

ご存じの通り、遠藤周作の「沈黙」は、日本に武器商人たちと共に来日したイエズス会の宣教師たちと隠れキリシタンへの宗教弾圧を描いた作品だ。

 

その中で象徴的な宗教審判の道具として登場するのが「踏み絵」である。

「踏み絵」は、16世紀初頭から、江戸幕府の禁教令により、薩摩藩を除き、キリスト教の布教が広がっていた九州諸藩が隠れバテレン摘発や宣教師への棄教(キリスト教を捨てる)の道具として使用したものだ。後に、九州以外の諸藩でも使用された。

実際には、信長の死後、豊臣政権になってから、秀吉は、イエズス会キリスト教伝道を隠れ蓑に、日本をバチカン支配下に置くイエズス会のミッション、謀略を見抜き、キリシタン弾圧は始まっていた。イエズス会の布教侵略については、映画『ミッション』(監督ローランド・ジョフィ 主演ロバート・デニーロ 1986年カンヌ映画祭パムルドール賞)が詳しい。

 

18世紀になると、信仰心を失わなければ、踏み絵を踏んでも神への冒涜にはならないという考えが定着し、形骸化するが、九州、とりわけ長崎などでは正月の年中行事のようになり、俳句の春の季語にまでなっている。

だが、禁教令が出て数十年の間は、全国でキリシタン弾圧が続き、踏み絵を踏めなかった者は処刑、または獄死という現実が待っていた。宣教師(日本人宣教師を含む)の処刑も単に斬首ではなく、真冬の水攻め拷問など、その手法は残忍を極めた。

「沈黙」では、棄教してしまった先輩神父の抜け殻のような姿といまそこで踏み絵を踏むことに苦しむ隠れキリシタンの葛藤する痛ましい姿。その狭間で苦悩する若い神父が自らの信仰心とは何かを自問し続ける姿を描いている。

苦難にある人の前で、救いではなく、沈黙する神は一体、私や神を信仰する者に、何を問いかけているのか…。だが、その答えは、自からの信仰心の真偽を問う沈黙=神の沈黙の中にしかない。ナイフのように突きつける問い。それが踏み絵だった。

いま私たちの国は、イエズス会ならず、旧統一教会というエセキリスト教、カルト集団反社組織の謀略に、政権が同調、加担し、自民党ばかりでなく、保守系反共=反左翼=ファシズムの国会議員やエセ労働組合、エセ社会貢献団体、マスコミや大企業までも籠絡されている現実を知らされた。

統一教会とつながりがあるかどうかの政治家やマスコミ、大企業への踏み絵は、18世紀形骸化した踏み絵のように、いまその実効性はまったくない。

 

踏み絵に実効性がないのではなく、「沈黙」のような自身の存在を賭けた自問=反省がないのだ。だから、踏み絵をすり抜けた言葉の言い回しで、回避する。それで事は片付くと踏み絵(関係を示すデータ)を差し出されても、ごまかしている。報道としても、一部の番組を除き、反社集団としてからの議論を始めない。

だが、それは同時に、こうした政権、政権の圧力に隷従するマスコミ、企業を長く許して来た私たち国民ひとりひとりへの踏み絵でもあるのだ。

統一教会という反社集団によって引き起こされた事件によって、失われた家族関係もあれば、貧困や生活難にあえぐ人々がいるだけではない。

政権の汚濁を請け負う反社組織として汚れ役を担わせ、国政を利用して利権で私利私欲を貪る政治家たちの特権を許し、結果、非正規雇用でしか働けない者、そこにすらすがれない貧困を増大させ、中小零細企業の倒産や廃業の増大、若年世代の自死者の増大など、国の未来に希望を持てない国民を増大させてきた。

それは、踏み絵を前に、なんら内省しない、できない愚かな政治家を国会や地方議会に送り、経済的な利益さえあれば、それがどういう利権に基づいているかも斟酌しないで
踏み絵を前にしなかった、私たち、あなたたちの責任でもあるのだ。

この国は、いま踏み絵を差し出された、無知な子どものふりをする輩が跋扈している。それは魑魅魍魎の顔を仮面の下に隠した、安倍晋三に代表される姿だ。

それを突き付けたのは、山上という青年の放った銃弾である。彼は、それによって、結果的に、私たち国民にも踏み絵を突き付けている。


その問いを政治家が受け止める気がないなら、私たち国民みずからが、次の世代へ向けてあるべき、自問と行動を起こさなければならない。