秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

      ”Please forgive us, We forgive you."

2002年の初夏のことだ。9.11からあと数か月で1年という時期だった。ぼくはある平和イベントの企画プロデュースを任されていた。そこで流す取材動画収録のため、単身、撮影機材を抱えて、アメリカへ飛んだ。

 

折しも、ネオコンに支配されたブッシュ政権が9.11の報復としてアフガン空爆を行い、イスラム圏の過激派を支援し、化学兵器を開発している証拠をつかんだとして、イラクへの軍事進攻が現実のものになろうとしている時期だった。

だが、国連安保理の承認は得られず、共同作戦という名目で、イギリスを始め、フランス、ドイツなど、主要先進国アメリカのイラク戦争に参戦を表明し始めていた。日本も海上自衛隊の派遣を決定しつつあった。イラク戦争は、もはや時間の問題という情勢だったのだ。

だが、イラクやアフガン、パレスチナなど、イスラム圏の紛争地域で難民や被災住民の支援を続けていた日本のNGO、NPOや活動家を知っていたぼくは、彼らからの情報で、アメリカの根拠なき報復が世界の秩序をより混乱させると確信していた。

そのため、アメリカ国内の実状を知りたいと、9.11以後アメリカ国内で反戦平和を願い活動する現地の市民団体やジャーナリズムの情報を追いかけていた。アメリカの良心がそこにあると信じたからだ。

そのとき、ネット情報で知ったのが、ニューヨークに拠点を持つ、Peaceful Tomorrowという9.11遺族会から生まれた反戦市民団体だった。自分の家族、親族を奪われながら、イスラム圏への報復の攻撃をやめよと訴えた人々だ。

また、ベトナム反戦運動当時ワシントンポストの記者だった人物が立ち上げた、ロスの市民ラジオ放送局がアフガン空爆イラク戦争に強く反対する報道をしていることを知った。

ロスとニューヨークの現地コーディネータに連絡し、撮影許可と取材協力を取り付けるように依頼した。それを受けて、平和イベントの中で取材動画を流すことと、今現在、イスラム圏で活動している国内NGO、NPOなどの担当者に登壇してもらい、会場で現地の動画と反戦のメッセージを発表してもらう企画にまとめた。

このイベントの趣旨に賛同して、ミュージシャンの山本潤子さんが生ライブで参加してもらえることにもなった。「こうしたイベントに参加させていただいて、光栄です」潤子さんの言葉が胸に刺さった。

3日間のロスの取材のあと、国内線で5時間かけて、JFK空港に降り立ち、真っ先にワールドトレードセンター跡地に向かった。当時は、瓦礫が撤去されていたが、倒壊したビルの回りに囲いがされているだけのものだった。周辺のビルには、センターが倒壊したときの破片による生々しい傷跡がいくつも残されていた。そして、マンハッタンの至る所に、星条旗が掲げられている。

ぼくは、そこで、被災者への鎮魂の言葉や大切な人を失くした悲しみの言葉、いのちを賭して、救出に当たり、亡くなった消防士や警察官への感謝の言葉の中に、この一文をみつけたのだ。

               ”Please forgive us, We forgive you."



Peaceful Tomorrowから、取材対象者として、紹介された、現代美術のキューレーターのバレリーという高齢の知的な女性は、トレードセンターで働いていた甥を亡くしていた。未婚で子どものいなかった彼女には、自分の子どものような存在だったと話してくれた。

しかし、ニュージャージーでのクエーカー教徒の集会での講演でも、彼女は甥の話に涙しながら、こう人々に訴えていた。

アメリカがこれまで中東やイスラム圏の人々にしてきたこと、イスラエルに無償で大量の武器を援助し、それによっていかに多くの人が理不尽な死や怪我を負い、生活を奪われたきたか。そして、それすら9.11が起きるまで、自分を含め、多くのアメリカ人は知ろうとも学ぼうともして来なかった…。

「私たちの悲しみをまた他の多くの人に与えないでください。そして、私たちを許してください。私たちもあなたたちを許しますから」

バレリーはそう言って話を締めくくった。その言葉はいみじくもぼくがトレードセンター跡地でみつけた、一文と同じものだった。偶然であるが、Peaceful Tomorrowの人々の願いそのものだったのだ。いや、心あるアメリカ人のそれは総意であり、ユニバーサルバリューそのものだとぼくは実感した。

後に、バレリーは、長崎の原爆の日に来日し、講演をしてくれている。

平穏で豊かな日常にいる人は、それだけが世界だと思う。あるいは思いがちだ。だが、自分たちの平穏で豊かだと思っている毎日は、だれかの犠牲の上に成り立っている。

富める人には見えない風景と現実が、この世界、社会にはある。テロという最終手段に訴えるしかないところまで人を追い込むのは、その想像力の不足と現実認識の甘さだ。

キリスト教的に、互いの許しを乞う前に、自分の優位性が見落としている社会の現実を知ること、それは市民にも求められるものだが、政治家がまず最初に始めなくてはいけないことだ。

それが失われているところに、貧困が生むテロは、姿を現す。