秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

芸と芸術の間で

演劇の世界から映像の世界へ転向して間もない頃だった。

 

NHK主催の映像セミナーに参加したとき、NHKを退職してフリーとなり、基調講演に登壇した演出家の和田勉さんと話をしたことがある。

 

和田さんは、映画とは異なるテレビの制約された特性を生かす映像表現、「クローズアップ手法」を提言し、テレビの作品制作に新しい表現法を持ち込んだことで良く知られている。和田さんの手法は、日本国内にとどまらず、世界のテレビ局が制作するドラマやドキュメンタリーに強い影響を与えた。

特に、「女殺油地獄」「曽根崎心中」といった近松作品では、この手法は秀逸だった。出演している役者から憑依を引き出す手腕はもちろんだが、近松の描いた毒々しい愛憎とそれゆえに、情念にのた打ち回る、死に際の演出はクローズアップを使い圧巻だった。

近松作品のこと、向田作品のことなど、和田さんが手がけた作品について話をしているうちに俳優の演技の話になった。すると、それを聴いていただれかが、「いまは俳優とタレントの区分けがなくなっていきますが、それについてはどう思われていますか?」と質問して来た。いい質問だ。


すると和田さんは、こう答えられた。

 

「タレントというのは、本来才能を意味する言葉ですが、日本では芸のできる人ということでしょう。芝居もできるかもしれないが、テレビに出て何でもできる人ですね。ですが、演技というのは芸ではなく、芸術です。俳優というのは、なんでもできる人ではなく、それしかできない人のことです。だから、わざわざタレントではなく俳優という言葉が存在し、役者という職業が成り立っているのです。日本では、芸能と芸術が混同されるんですよ」

見事な答えだった。ぼくが演劇を続けて来る中で、役者にも語り、自分自身も演出し、脚本を書く人間として、そうあらんとしてきた言葉だったからだ。少なくとも役者は、何でもできるだれかではなく、役者しかできないその人でなくてはいけない。そうでないと、演技の質量に大きな差異が生まれる。

自分の多彩を発揮して、演技をひとつのカテゴリーとしてこなせる作品もないわけではない。しかし、才能をいろいろな分野で発揮したいなら、それは俳優でなくてもいい。何でもできる人が、そこで醸し出す俳優としての存在感や実在感は、明らかにそうではない俳優に引けを取る。それでは、演出家や脚本家が願った虚構のリアリズムを現前化できないのだ。

確かに、知名度や人気といったバロメーターが高ければ、その舞台、映画、テレビドラマを視聴する人間の数は増えるだろう。しかし、そこだけに依存すれば、作品を高めることよりもそれらが重要なる。

いまは、テレビにせよ、映画にせよ、コミック原作や小説で100万部以上発刊されたものでないと企画会議にも乗らない。しかも、そうした作品は、配給会社・広告代理店・スポンサー企業などの思惑が交錯し、キャスティングせよ、クルーにせよ、落としどころのよいとこで決まる。これでは、良質な作品が少なくなって当然だ。

結果、この土場に乗れない俳優や演出家、脚本家は、それ以外のなにかで糧を得るか、折り合いをつけて、作品性や質を問わないもので糧を得ようとする。それがまた、役者しかできないその人ではなく、何でもできるだれかに変えていく。

これは俳優やドラマの世界のことだけではない、美術にせよ、音楽にせよ、そうした選択肢の中で、糧を得るために、器用に身に付けた能力を切り売りするか、転売するようになる。

切り売りや転売でも、そこに芸術性が維持されればそれでよしとする道を否定はしない。広く、だれでも、気軽に芸術性にふれられる機会が増えることは、裾野を広げることにつながるからだ。だが、何事かを表現する主体であるならば、裾野を広げる作品だけではなく、その主体の描きたいテーマやこだわりの表象がなくては、辛くも均衡を保とうとしている芸と芸術のバランスはいつか崩れる。

世界が自分を受けて入れなくても、世界へ向けて表現を止めないこと、止められないこと。そのために自らの表現と向き合い続けることしか、いつの時代においても、良質といわれる表現は生まれて来ない。

大きな話題にはなっていないが、チャン・イーモウの『One Second』は、映画人にそれを改めて考えさせる作品になっている。