秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

演出家の仕事

2本目の編集が終わる
 
内田悠子と赤沼正一がメインの作品。撮影終了後、内田から、19日の夜に時間があるので、事務所に顔を出すという連絡をもらっていた。
 
ならばと、編集を間に合わせる。音楽や効果音のついていない、映像を編集しただけの状態で作品を見るのは、勉強になるからだ。
 
日本の映画界屈指の音効スタッフをもつ秀嶋組は、音効の魔術師。作品は、まずは本が第一。次に演出力と俳優の力。だが、それを幾倍にもするのは、音の力。それがオレの確信だ
 
オレ自身、音楽をやっていたこともあるし、クラッシックからジャズまで音楽を聴きまくっているということもある。ミュージシャンの知人、友人も少なくない。音にはうるさい。
 
だが、それは♪としての音としてだけでなく、台本の言葉、俳優の演技と発声、声の質、そして、編集のリズム。すべてに、音楽があると思っている人間。いつもいうが、オレが台本を書くときは、譜面を書いている気持ちでいる。
 
だから、それを発声し、動いて音にする俳優(楽器)の声の質、所作の癖には、すごいこだわりがある。オーディションの大きな目的は、オレとって、俳優の声の高低、強弱、質を確かめるためのものだといってもよいくらい。
 
作品のよしあしを最後に確認できるのは、従って、魔術を使う前の俳優の音と編集のリズムだけでつくられた作品を観るのが一番いい。
 
内田は、あれこれぐだぐだいっていたが、それをいうと合点がいったようで、外苑前のご無沙汰している、すし屋「ごっつぉ」で、珍しく生ものを食い、この間、エキストラで出演させた青山村のバイトくんにギャラを渡して、数杯飲んだあと、作品を鑑賞させる。
 
やっとというか、ようやくというか、内田は、今回の現場で、自分の演技の勉強の仕方の方向性の誤り、オレが求めている演技の質への誤解にやっと気づいたらしい。
 
まだまだ、すべてが合点がいっているわけではなく、軌道修正しないと、発言を聞いていて、誤解もあるが、少なくとも、オレがなぜ、世阿弥の演技論、演出論にこだわっているかの片鱗を垣間見たよう。
 
それができていず、期待している芝居をしていない自分に、撮影が終わって気づき、すみませんのお詫びを言わなくてはと、オレが忙しいのを承知で侘びにきたのだ。
 
だが、それもこれも、俳優業ではない、村娘がオレのHPを読んでいたく感動し、自ら世阿弥を学ぼうとしているという、ブログの情報があったから。あれは、奴らをガツンと打ったそれで、改めて、真摯に向き合ってみると、見えてくるものがあったらしい。
 
もう一つは、どのような著名俳優であろうと、ほとんど俳優を褒めないオレが、手放しで、吉川奈穂を絶賛していることもある。しかも、その根拠を長部はもちろんだが、内田も観ている。二宮聡、佐藤旭といった50才近い脇役さんたちのがっちりした芝居と直面したもの大きいだろう。
 
チャライ、仲間内でやる舞台などに出るより、がっちりした芝居の端役でもいいからでろ、とオレがいう理由はそこにある。社会派や啓発人権ものの地味だが、俳優の内実のつくりを要求される芝居をやらせているもの、そこにある。
 
時間のかかる奴、かからない奴。それは、どの世界にもいる。教育とは、たゆまず、あきらまめず、いつかこちらの伝いたいものが、血となり、肉となってくれることを信じるしかない。
 
ある意味、その孤独な作業を続けることが、演出家の仕事でもある。
 
人知れず、そこにあり、人知れず、世界の広がり、宇宙の真理を語る、一輪の切花として…。