秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

いっちゃえ、グランドデザイン

ぼくらは風景や景観、人物、対象物を正確に認識しているつもりでいても、物事、世界の捉えた方、見方、理解の仕方において、脳の経験則や民族的、個人的な体験記憶に縛られて、一応ではない。

また、近年の量子力学や宇宙物理学の研究でも明らかになっていることだが、現実(リアル)の認知は、Just Timeではなく、近似値でのそれであれ、誤差があることがわかっている。

もっといえば、非可換幾何学から素数の命題リーマン予想を解き明かそうとすると、世界は三次元ではなく、十二次元で構成されているという数式が浮上してくる。簡単にいえば、「私」が十二人いることで、ひとりの私がここに存在しうるという仮説式だ。これは、しばしば映画の題材としても使われている。

人類の歴史はこの捉えどころのない、他者、つまり世界と私をいかに正確(リアル)につかむかの悪戦苦闘の日々の連続といってもいいくらいだ。

ぼくらは、脳の認知も、量子力学も、非可換幾何も、日常生活には何のかかわりもなく、日々の暮らしには意味をなさないと思っている。それを知ったからとって、いまの生活がどうにかなるわけでもなく、よくなるわけでも悪くなるわけでもない…。そう考えている。

では、なぜ、この数十年の間に、デザインシンキングやグランドデザインといった言葉が生まれたのだろう。思想的発端は、知覚を現象学として捉えたフーコーなど哲学者たちだが、それがいまぼくらの日常にじつは現前化し、かつ生活に浸透している。

デザインという言葉が単に美術的、哲学的意味合いを越えて、構造や制度設計、システム構築、社会全体、世界そのもののあり方にまで、応用されるようになったのは、もちろん、ITの進展、デジタルの日常化、生活化、さらには、AIなどの人工知能の応用が背景にあるのだけれど、デジタル文化の広がりによって、情報とこれに基づく、作業仮設の実証が視覚化できるようになったことが大きい。

これまでアナログとして人間の手作業や勘に頼っていた視覚化の作業が、デジタル化によって容易で、かつ一応の平等性を持てるようになった。それは同時に、情報の公開と無償化をもたらした。だれでも、いつでも、どこでも、情報に無料でアクセスでき、それを自由に活用できる。そうでないと経済そのものが活性化しない時代になっている。

格差の中で、辛うじて社会からスポイルされそうな人々をつなぎとめているのは、スマホであり、よしにつけ、悪しきにつけ、そこで得られる無償の情報だ。

自治体や広域行政、政府、政権、政治の問題がこれもよしにつけ悪しきにつけ、議論される場を辛うじて国民に提供しているのも、WEBやSNSの無償の情報だ。

いずれもテキスト、画像、動画など視覚化されるもので成立している。

デジタルネィティブだけでなく、あらゆる世代に、いまやリアルな日常の不確かさを補完するための重要なツールとしてそれらがあり、政治家、評論家、ジャーナリスト、マスメディアなどが発するマスを対象とした情報(いまマスという対象そのものが存在しないのだが)より遙かに、人々は広く情報にふれる機会を持っている。もちろん、フェイクやポピュリズムが溢れるのは、そのせいでもあるのだけれど。

リテラシーの問題はとりあえず置くとして、広く情報にふれる機会が日常的になった分、だれにとっても適切であるグランドデザインというものがあるらしいことを程度の差はあれ、多くの人々がいま直感しているとぼくは思う。

SDGsの広がりもそのひとつだし、格差の是正、資本主義に代わる新たな経済理念やシステムへの切望もそれだ。データを見れば、地球環境の悪化も格差も、紛争や戦争、分断や対立もその要因がどこにあるか明白だ。

何とかファーストや既得権益を守ろうとする利己では、適切なグランドデザインを実現する障害にこそなれ、生み出す力ではないことを人々は知っている。

知っていながら、グランドデザインが見えないために、これまでのアナログな何かで凌げるのではないか、とりあえず、これまでの手作業的アナログデザインや言葉だけのグランドデザインらしきもので代替えしておこうという大衆心理も広がってる。

デジタル庁の不祥事とデジタル庁の社会的意義とがコンフューズしているのは、まさに、その象徴だ。威勢のよかった岸田首相が総裁選の途中から安倍、麻生の傀儡に沈んだものその典型といっていい。

ましてや安倍・麻生連合政権下の不祥事や通常なら立件されて当然の犯罪が不起訴または、不問にされているのも、新しい社会、世界のグランドデザインが見えないことがひとつの要因としてある。

確信が持てないのだ。世界に呼応して、新たなグランドデザインを社会、国の基本に置き換えることに不安なのだ。目に見えるものを絶対リアルとする信仰にはまっているから、当然そうなる。

戦後の経済成長の成功事例から見てもわかるように、一部修正や一部補完で国家運営はなんとかなって来れたのだ。だが、そうしたものがまったく通用しない。しないのではないか…。東日本大震災でも、今般のコロナ禍でも、その現実は明らかになっている。

しかしながら、ここまでコケにされ、アナログ的手作業デザインでは無理だ、なんちゃってグランドデザインは、圧力の前で無形だとわかりながら、目に見えるものにすがる絶対リアルから脱しようとしない。絶対的リアルなど存在しないし、そこに価値を置くことに何の意味もないことがわかっていないからだ。

呼吸のしやすい社会、生きて行くのがしんどくない世界。リアルだと思っている日常からそれらは生まれないし、つくり出すこともできない。グランドデザインとは、いまのリアルを否定し、無邪気な子どもが持つ、ありえないと思える想像力からしか誕生しないのだ。

What people can imagine can always be realized by people

「人が想像することは必ず人が実現できる」

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ