秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

サマリア人の悲喜劇

穏やかな人、物静かな人、やさしい人、いたわりのある人…。多くの人が思う善き人とは、そうした人のことだろう。

確かに、笑顔を絶やさない人や言葉のやわらい人、ゆったりした空気感のある人に出会うと、人の心は落ち着く。

だが、それができるのは、主張をひっこめ、他者との諍いや口論、議論を避けるからこそできるという一面もある。

あるいは、他者への否定や競争心、虚栄心、怒り、不満、不平、愚痴、悪意といった悪感情を表に出すことが得策ではないという計算がある場合もないとは言えない。

無難に他者と付き合うための作法として、善き人であろうとすること。それは、協調性重視という同調圧力容認の社会生活で、この国の大半の人々に歴史的に刻み込まれて来た作法だ。

つまりは、他者や集団からの排除、否定、さらにはいじめに遭わないために生まれた処世術という名の画一性への隷従と主張の放棄、抵抗する意志の消去。

 

確かに人と議論することも、主張をぶつけ合うこともエネルギーがいる。エネルギーがぶつかれば、口論にもなれば、喧嘩にもなる。諍いや言い争いに耐えるにも、そこにまたエネルギーを必要するだけでなく、これに立ち向かえる耐性がいる。

そんな面倒なことをして、他者や集団からの排除やいじめ、それによる不利益や孤立に追いやられるなら、しないにこしたことはない。そう考えるのもわからないではない。

この国には、他者や集団に対してNOを突き付けて、それが正しいものであったとしても正当に社会的評価を享受できた成功事例が極めて少ない。

異論反論が正しいものであったと認められ、制度やシステムの欠陥を糺すことができたとしても、それを主張した人間や団体には、「うるせい奴ら」のレッテルだけが残り、社会の枠組みの脇に追いやれる、無言の排除に遭うという憂き目の事例は少なくない。

なぜなら、いつの間にかトンビが油揚げをさらっていくように、制度やシステムの刷新は、それをして来なかった輩の裁量に置き換えられてしまうからだ。

だから、この国には、益々、善き人が増える。善き人の範疇に入らない人は、クレーマー、人格障害発達障害、心の病んだ人、ひと昔前なら共産主義者無政府主義者へ蔑視、アカといった社会適応能力の欠けた「うるせぇ奴ら」「面倒くさい奴ら」という枠にくくられてしまうのだ。

多様性と共存などと、オリパラでも国連でも、政治でも美辞麗句をいいながら、この社会的慣例とさえいっていい、この国を構成する人々の意識のあり方は、まったく逆方向にしか向いていない。

善き人の増加は果たして社会や国、世界のためになることなのか。

キリスト教の重要な教義の実践は、汝の隣人を愛せよだ。そのたとえとして、善きサマリア人が他の人を救済する姿を聖書は語り、その惜しみない慈悲の大切さを述べている。

人は自分が善き人のひとりであろうとする。それは悪いことではない。だが、善き人であろうとすることで、地域のあり方、社会のあり方、国、世界のあり方への無言の承認、それぞれにある課題を問題視せず、盲目的に受け入れてしまう人間を増大させている。

この時代、どの分野でも、どこでも分断と対立は当然起きる。分断と対立はいま必要だから起きているのだ。環境問題を含め、アフガン情勢を含め、あらゆる世界での出来事、この国で起きているお粗末なコロナ対策も、起きるべくして起きている。

大切なのは、この分断と対立に目を向けること。そして、その要因は何が生んでいるのか、何が問題なのかを考え、議論することだ。それなくして、いくら善き人が増えても、世界に、この国に、社会にキリストが願った善きサマリア人の慈悲の正しい実践は生まれない。