秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

砂の器のオリンピック

連載小説『砂の器』が出版されたのは、いまから54年前。1967年のことだ。

ハンセン病患者への差別を背景とした、その小説は、映画化もされ、テレビドラマ化もされた。

だが、1974年、映画は芥川比呂志のテーマ曲とともに大ヒットしたが、映画化の際には、人権団体からハンセン病への差別を助長すると猛烈な抗議があった。テレビドラマ化の際には、主人公の父親がハンセン病患者だったという重要な背景は削除され、猟奇的な殺人犯であったという筋書きに書き換えられている。批判を恐れた、テレビ側の自主規制によるものだ。

結局、松本清張が提起した差別の持つ慟哭の深さとそれ故に、己の出自を隠蔽してまでも、まっとうな人生を歩もうとする被差別者の屈折した心情、そうしなければ、まともな仕事につけない被差別者の現実を多くの人に知らせる手段は薄れていった。

腫物にさわるようにしか、差別の現実をとらえることができない。

それは、長く、この国の人権問題に横たわってきた大きな課題だ。同和(被差別部落民)にせよ、在日(朝鮮半島・中国からの移住者)にせよ、身体障害者知的障害者ハンセン病患者、公害病患者、被爆者、アイヌ民族、沖縄出身者、母子家庭、父子家庭、受刑者、児童養護施設出身者、風俗に従事する女性、同性愛者など、差別を受けてきた、あらゆる人々への視線、ふれあい方の所作、言葉かけのすべてにおいてそうだ。

だが、それは人権擁護団体側の課題でもあった。「差別者に被差別者の苦悩がわかってたまるか」。「自分たちの都合のいいようにオレらを利用するな!」。「まともな勉強もしないで差別を語るな!」…。

 

長い歴史の中で、騙され、謀られ、利用され、操られ、傷つけられてきたからこその言葉だが、それが逆に、差別の現実を広く知らしめる大きな桎梏となってきたのは紛れもない事実だ。

 

ぎこちなくしか被差別者との接点を持てなくしているのは、被差別者の現実を小説や映画、テレビで描こうとする度に、越えられない壁としてしか存在しなかったからである。

確かに、無学と無知が差別の最大の要因だ。それゆえに、十分な学びや知識もない人間に、差別の現実が正しく捉えることができる保証はない。それは、差別を助長し、差別の現実を歪曲させる危険もある。

だが、だからといって被差別者の現実と被差別者の現実を広く人々に伝えるという啓発とは同じ地平で議論されるべきことではない。まして、島崎藤村『夜明け前』のように、あるは、米国黒人文学の巨匠ボールドウィンのように、それが芸術であればなおである。

また、いまでは、かつて被差別者とされてきた人々だけでなく、格差によって、これまで被差別者とされていなかった、多くの人々が貧困や生活苦にあえぎ、社会から放逸さされているという現実が広がっている。

被差別者は、これまでの長い、つらい闘いの過程で勝ち取った国から補償される補助金や生活支援金を受け取れるが、その枠組みには入れない人々だ。

松本清張がこのハンセン病をモチーフにして描いた作品のタイトル。『砂の器』は、そうした社会の本質、被差別者VS差別者といった単純な二極対立の図式では描き切れない現実をえぐろうとしたからこそ、生まれたものだろう。

あと数日に迫った東京オリンピックにおいても、五輪中止を叫ぶ反対者もいれば、五輪賛同の人々もいる。また、ここまで来てしまったのだから、やるしかないだろうと極めて消極的ながら受け入れる人たちも少なくない。そして、政権が考えるように、国民なんて始まってしまえば、熱狂して、肯定的な感情に傾くだろうと高をくくっている人間もいる。

だが、このコロナ禍において、その多様な意見を生み出してしまった東京五輪は、いまや「砂の器」化している。

子どもたちが海辺の砂でつくったお城や人形のように、それをつくりあげるまでは無邪気なだけでいい。遊んでいればいい。しかし、ひとたび満ち潮になり、波がせまれば、それは、ただの砂に戻されていく。波の去った後には、何も残らない。

人権とそれを生む社会を考えるとき、また、ぼくのように、それを知らしめ、共に考えることを映画という世界でやる人間にとって、つくることが大事なのではない。つくったことによる責任を果たすことの方がはるかに至難で、大切なのだ。

多様な意見が飛び交い、そのひとつひとつと向き合い、自らも問い、つくり上げる苦楽の向こうに必要なのは、それがあってよかった、よくぞ自分たち被差別者の現実を正しく伝えてくれたという当事者の声であり、桎梏となっていた人権団体に胸を張って、あるべき啓発の姿を堂々と示すことができるかどうかなのだ。

そして、同時に、まったく差別問題や人権問題に関心もなかった人々でも、ひとつの映画作品として受け入れられ、映画を観たことが何かの契機となり、差別や人権の問題を他人事としてではなく、自らの生活に照らして、わが事とできる道を拓くことなのだ。

そして、自分の生き方として、生活として、映画にした人の権利を蹂躙する側には、決して回らないという決意と実践だ。尊厳や権利が蹂躙されれば、迷わず闘うという意志と姿勢だ。

残念ながらというか、当然のことだが、コロナ禍の中、世界の現状を無視して強引に開催される五輪は、いまやその本質を失くしているばかりか、あるべき理念も大儀も建前だけで、拝金主義と虚飾に満ちたアッパークラスのお遊戯会になっている。

以前にもふれたように、資源枯渇型の資本主義の成功を賛美する五輪は、もはや波の後には何も残さない。つまりは五輪のように競争の勝者、強者を賛美することが大きな眼目となったイベントは、この世界の現実の前に、あまりに無力だ。いかに敗者への賛辞や共感があろうと、金メダルをとるという1点において、五輪は資本主義社会のシンボルでしかない。

逼迫する地球環境、政治不安を含め、コロナ禍の現実を前に、世界の人々は、波にさらわれる砂の器に感動はしない。

感動するのは、東日本大震災のあのときの、あの慟哭。コロナ禍でいのちが奪われたとき、そしていまも奪いつづけ、世界を覆いっているこの慟哭と対峙し、この世の果てしない矛盾、理不尽さに刹那のように、見える未来への明日への光だけだ。