秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

神話の国のアリスたち

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年刊)『鏡の国のアリス』(1871年刊)

 

初めて絵本を読んだとき、不思議でしょうがなかった。描かれている世界の現実にはありえない、不思議さではない。

 

迷い込んだ世界で、次々に脈絡もなくアリスを襲ってくる摩訶不思議な世界に、なぜアリスは、自分がそんな目に遭わなくてはいけないのか、いま自分のいる世界は何なのだろうと問おうとしない不思議さだった。

 

アリスは、最後には公爵夫人の押し付け教育の質問を無効にする否定行動もするし、裁判の理不尽さに異議も唱える。しかし、それまでは、すべてを従順に受け入れ、受け入れていくことで、元の世界へ戻る道がみつかるかもしれないと不可思議な冒険をこなしている。


いまはわかる。それは、アリスの迷い込んだ世界がアリスにとって、安心ではないけれど、楽しい世界だったからだ。

不可思議な世界には、未知という楽しさがある。怪しく、怖くもあり、危うさもある。しかし、そうした日常にないキケンは、子どものアリスにとってわくわくするものだったし、押し寄せる試練も、それがなければ、おもしろくも楽しくもない。

 

おかしな現実も受け入れてしまえば、怖さより普通になる。そして、その普通がこれまでとは違うものなら、そこに否定より従順がついてくる。


まして、キャロルがアリスたち少女たちへの好奇心とエロス的願望でつくりあげた世界には、並大抵ではない、言葉遊びと知的好奇心をそそる世界が広がっていた。怪しくもあり、知的でもある。それだと当然、否定より従順が先になる。


利益相反や公文書の書き換え、隠蔽といった刑法犯が成立する事案があふれながら、長く、安部政権にこの国の人々が甘んじてきたのは、それではないかとぼくは思っている。


辞任前は半数以上の人たちが内閣不支持をいいながら、マスコミの先導があるにせよ、菅政権の誕生前後から一気に支持や期待に変わってしまう異常さもそこにあるような気がしているのだ。アリスのように、ちゃうじゃんとは言うが、キャロルがつくった世界全体を否定しない。できない。


アリスの世界には、寓意や寓話、日本でいえば、神話にされている隠喩や暗喩、古い言い伝えの慣用句や表現が散りばめられている。キャロルはそれを肯定ではなく、イロニー、批評としてコラージュしている。

既存の決まり事、決め事。それまで、当然とされていた教育的教訓や勧善懲悪の基準の否定のためにだ。

 

そのおかげで、児童文学のいい子にしていなさい一辺倒から文学性を高める道を拓いた。ジョイスがキャロルに強い影響を受け、名作『フィネガンズ・ウェィク』が生まれたのもそのひとつ。

しかし、この日本という不思議の国では、逆に、触れるには要注意とされてきた憲法問題や軍事拡大、格差当然といった社会への転換が、キャロルとは逆のベクトルで使われている。触れ方注意だった、寓意や寓話、教訓の完全否定だ。


その代りに、アリスを楽しませる言葉遊び(ご飯論法などのごまかし答弁)やそれを当然とする、政治をつくりあげた。利益供与をし、従順な官僚、経済人、マスコミを喜ばせる。この世界は危ういが、既存の決まり事を壊してしまえば、楽しい。

国民も、アリスのようにダメじゃんとは思いながら、いまを壊すより、今のままの方が危ういのはわかっているけど、なんとなく生きられて楽しい。

それが、ぼくらの不思議な国、何でも許される神話的世界。つまりは、アリスの世界になって、危うく、だけど、従順であることで、キケンを楽しむ国。キケンと楽しさをない交ぜにしていられる、アリス的国民、その国の住民になっている。